自民党と民主党

野田総理見てて思うのはなんだ民主党でも自民党みたいな(実務的な)政治ができるんじゃん、ということだ。
小泉首相以来久しぶりのまともな首相という印象だ。
しかし彼も一年で使い捨てにされるのかと思うと惜しい。
麻生さんやら安倍さんやらもあまりにも短すぎた。

で、なんだ、民主党でも自民党みたいなことできるじゃん、じゃあもう自民党要らないね、
という人もいるかもしれんが、逆に、
民主党も自民党みたいな与党になってしまった、これでは民主党の存在意義がない、
と心配する人もいる。
どっちにしろ、民主党も自民党も似たり寄ったりで存在意義はないということであり、
いっそのこと平成の保守大連立でもやりゃあいいんじゃないのかと思う。
そんでついでにアレとかアレとかアレとかと縁を切ればいい。
しかしなかなかそんな当たり前のことが実現しない。

最近のPV

4月くらいからpubooで公開している小説のPVを観測していたのだが、
なんと一番多いのは[超ヒモ理論](http://p.booklog.jp/book/24099)で、
まあ、そんなに多いとも言えないのだが、一日平均10PVある。

[大塩平八郎](http://p.booklog.jp/book/50924)は最近公開したのでおくとして、
次に多いのは
[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)。これは山崎菜摘の冒頭だからかもしれんが、
[セルジューク戦記](http://p.booklog.jp/book/32947)が多いのは意外だ。

超ヒモは検索にひっかかりやすく、また誰でも読めて、それなりに面白いと思われるので人気が出てもおかしくない、と思う。
周りにいる普通の知り合いに読ませて「普通に面白い」と言われたので、ごく普通に読めるものだと思う。
じゃあこういうのをどんどん書けるかといわれれば、実はかなり難しい。
このネタは、昔から暖めていたネタに最近仕入れたネタを足してできたものであり、わりと手の込んだものなのである。
良く読んでもらえばわかると思うがただ思いつきの空想では書けない。
しかし、実話でもない。
いろいろひねってある。
私の場合ネタさえあれば小説は書けるので、歴史小説は調べればいくらでもネタがあるからある程度量産はきく。
しかし現代小説は、そうはいかない。すぐねたが枯渇する。

セルジューク戦記というのは超ヒモ理論の対極にあるというか、まるでジャンルは違う。
何しろイタリアとギリシャとイランで同時進行する話であるから難しく書こうとすればいくらでも書けるがそれでは誰も読めない。
で、できるだけ編年体にした。時系列に並ぶようにすれば少しは簡単になるかもしれんと思って。
最初はアラビアンナイトみたいに、物語の中に物語りが埋め込まれたような、枠小説にしようかとも思った。
デーテでやったように。
でももともと複雑なのにさらに複雑になるのでやめた。
で、最初おもしろければ最後まで読んでもらえるかと思い(笑)、最初の部分はエウドキアの玉の輿話にしたのである。
エウドキアの物語として短編小説にすることもできる。
そういう仕掛けになっているが、実は主人公はオマル・ハイヤームである。
こういうのが好まれるのであれば、つまりこの手の本格的世界史小説のニーズがあるというのであれば、
また書いてみようかとも思う。デーテもそれに近いしな。
高校生の頃は世界史が大好きで日本史嫌いだったから地が出るのかもしれん。
やはり素で書いたものにはかなわんのかな。

いろんな人に聞いてみたが、みんなオスマントルコは知っててもセルジュークトルコは知らん。
十字軍は知ってても、東ローマはしらん。
ましてマラズギルトの戦いなど知りもしない。
ナポレオンは知っててもナポレオン三世はしらん。
だが手垢のついてないネタだから触手が動く。
オスマントルコや十字軍やナポレオンならみんな知ってるから書けばよいといわれても、そう簡単にはいかない。

私の小説は、いちおう小説仕立てにしてあるがそれはたくさんのいろんな読者に読んでもらいたいがためであり、
実際は論文のようなものだ。今公開してるのでいえば、帝都春暦とか司書夢談みたいなもの。
論文をそのまま書けば誰も読まない。だから無理に小説を偽装してある。
主人公に学者が多いのもそのためだ。だいたい歴史を学者の視点で書いてある。
純粋な小説を書こうとすれば超ヒモとか墨西綺談のようになる。だが、そういうのは試しに書くことはできてもたくさんはかけない。

柴折りくぶる夕煙

[柴折り焚く](/?p=2912)で書いたことの続きだが、

後鳥羽院の「折り焚く柴」の歌は新古今集哀傷に出てくるもので、

十月ばかり水無瀬に侍りしころ、前大僧正慈円のもとへ「ぬれてしぐれの」など申し遣はして、
次の年の神無月に無常の歌あまたよみて遣はし侍りける中に

> 思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に

と詠み、慈円が返して

> 思ひ出づる折りたく柴と聞くからにたぐひまれなる夕煙かな

さて、これは哀傷歌であるから、誰か死んだ人のことを詠んだのに違いなく、
誰かいないかなと探してみたところ、正治初度百首(1200年)藤原隆信の歌に

> 雪埋む山路のそこの夕煙柴折りくぶるたれがすまひぞ

などとある。また、慈円が同じ正治初度百首に詠んだ歌に

> 雪のうちに柴折りくぶる夕煙寂しき色の空に見えぬる

とある。慈円はよく他人の本歌取りをする人だから、おそらくは、隆信の歌の返しとして詠んだものであろう。
新古今集を編纂するため後鳥羽院は6人の選者と11人の寄人と事務方1人からなる和歌所を設置したが、
隆信は寄人の一人であり、1205年、新古今集の竟宴直前に死んだとされる(隆信の死を悼んでそろそろいじくり回すのをやめた、とも解釈できよう)。
おそらく後鳥羽院は隆信の死後、その歌を思い出して、上記の歌を詠んだのではなかろうか、
それをやはりかつて隆信の本歌取りをして詠んだ慈円に示したのではなかろうか、
と推測できるのである。

水無瀬とは後鳥羽院の離宮のこと。
「ぬれてしぐれの」はよくわからない。なんだろうこれは。

「折り焚く柴の記」は、白石が子孫のために残した一種の回顧録であるから、後鳥羽院の、
「思ひ出づる折り焚く芝」「忘れ形見」が一番しっくりくるわな。

デザインうざい

広告が過剰だと疲れるのだが、たとえば香港の看板みたいにただ無秩序に羅列されているものはさほど疲れない。
むしろ心地よさすら感じる。
だが、今時のテレビにしろマンガにしろ何にしろ、疲れて仕方ない。
良いコンテンツを作って流す、というより、いかにしてよりデザインするかとか、より訴求するかとか、
より収益をあげるかとか、そんなことが露骨に見えて気持ち悪くなる。
都心だとさらに黒塗りの車などが走っていて気持ち悪さ倍増。
たぶんデザインアレルギーの一種だろうと思う。
普通の人がテレビを見ていても平気で、むしろもっとがんがんコンテンツを作り込んで欲しいと思っているからこそ、
制作側もエスカレートとするのだろう。
見ている方が気持ち悪いからもうめてくれといわないからこうなっているのに違いない。
まあ、アレルギーにかかった人間には周りの人間が不感症にみえるだけなのかもしれん。
あまりにもデザイン過剰な中にいたから、まったくデザインのない世界に行きたいと思うだけかも知れん。
それは AppleやMacのない世界に行きたいというのと、今日的にはほぼ同義であると思う。

ニュースもニュースだけ流してくれりゃいいのに、芸人にコメントさせたりするからとたんに気持ち悪い。
ドキュメンタリーもそう。
別に芸人が嫌いというわけではない。
談志の落語とかよくBGM代わりにかけている。
ああいう芸は全然うざくない。
コメントというより、いわゆるポジショントークってやつ?
いらいらして仕方ない。

マンガも、なんちゅうの、どれだけ連載を続けるか、読者の関心をもたせるかということが至上命題になっていて、
もう一切読まなくなった。

古来風体抄

中世歌論集でも少し書いたことだが。

wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。

式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。

俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。

そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。

それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。

追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。

引っ越し断念

共用サーバーというのは ftp か phpmyadmin とかしか使えず、ログインして作業できない。
そんで phpmyadmin で sql をインポートしようとしたらファイルサイズの上限に引っかかる。
UploadDir というのを設定すればローカルファイルをインポートできるというが、サーバ上のほんとうのディレクトリがわからんので、
アップロードしたい場所に phpinfo(); を仕込んでなんとかインポートしようとしたのだが、
途中でサーバーエラーがでてしまう。

で、共用サーバーではなくてVPSにすりゃいいらしいんだが、
月々のコストが三倍近くに跳ね上がる。
で、とりあえず凍結ということにした。

サーバ引っ越し

tanaka0903.net のドメイン更新にあわせてサーバをお名前.comに引っ越すことにする。

httpd を初めて走らせたのは 1994年だった。それは職場のサーバーだったのだが、
その後 1997年9月に geocities に日記を書き始めた。
インターネット接続は ISDN でプロバイダは AIF(アスキーインターネットフリーウェイ)
というものだったようだ。
すっかり忘れていた。

その後リムネットに引っ越したのだった。
すっかり忘れていた。

独自ドメイン取ったのは 2000年頃、自宅サーバを始めたのは、2001年くらいだったようだ。
最初は固定IPじゃなかったので No-ip の動的DNSを使っていたはずだ。
光ではなくてフレッツISDNというものだった。すっかり忘れていた。
というか、昔の日記を読んでもどうやってサーバ立てて運用してたかよくわからない。
ここに載せているのはそれら膨大な過去日記の一部だ。
昔は実名ばんばんさらしてたから(笑)。
今は公開できんね。

それから、bflets にして Asahi-net の固定IPサービスというのを使ったはずだ。
以来ずっと自宅サーバで遊んできたのだが、
いい加減疲れたので自宅サーバを維持していくのはやめようと思う。

たぶん一時的に休止すると思うが、そのうち復活する予定。
DNS設定変更が広がるまでしばらくかかる。
んで、今はwordpressしかやってないのだが、
みんなやってるみたいなんで、たぶん問題あるまい。
ていうか、wordpress 以外の php や mysql やっても良いということだわな。

ていうか、独自ドメインにこだわらなきゃ、hatena でもなんでも引っ越せばいいんだわな。独自ドメインにする必要あるかといわれればあんまないわな、もう自宅サーバはやめるわけだから。うーん。だけどまあ、はてなより wordpress の方が好きといえばいえる。せいぜい広告でも貼って小遣い稼ぎするか。

藤の長者

藤原氏全体の長者を藤氏長者とか藤の長者などというようだ。
藤原氏は中臣鎌足から次第に分家が枝分かれしたのだから、
その氏の長者というものにも実体があっただろう。
長者は摂政か関白か太政大臣になるのが普通だっただろう。

そのアナロジーとして、というか公家への対抗意識で、将軍家が源氏長者などと言い出したのに違いない。源氏全体の長者などいるはずもないのだが。清和源氏の長者というのであれば、頼朝の子孫となるところだが血統が絶えたので、足利氏は八幡太郎義家の子孫というので源氏長者などと言い、足利将軍家も絶えたので、こんどは徳川氏が新田氏までさかのぼって源氏の長者と言い始めたのだろう。律令国家の朝臣は氏や姓がなきゃいけないからそうして家系を捏造しなくてはならなかった。

そうか、豊臣秀吉は藤原氏の養子になったのか。ふーん。

徳川正記徳川氏

日本外史の中でも徳川正記徳川氏は異様に長くて切れが悪くてつまらんと思っていたが、
最近は結構楽しく読める。
日本外史を楽しく読んでいるというだけで病気なのに、その中でも一番つまらん徳川氏を面白く感じるとは、病膏肓に入ったというべきだな。
だんだん普通の人間の感覚というものがわからなくなってくる。

最初の辺りに、

> 頼氏、教氏を生み、教氏、家持を生み、家持、満義を生み、満義、政義を生み、政義、親季を生む。

という件があるが、これは文語訳マタイ福音書の

> アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生み、ユダ、タマルによりてパレスとザラを生み、・・・

という記述に良く似ている。つまり、ただ単に似ているというよりも、明治時代に福音書を訳すときに、たぶん訳者は日本外史の記述を参考にしたのだろう。或いは漢訳聖書の影響もあるのかもしれない。
そして筒井康隆はそれのパロディ・パブリング創世記を書いたというわけだ。
旧約聖書創世記にはマタイ福音書のような記述はないのだから、本来は創世記というのはおかしい。

新共同訳では

> アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・・

となっていて、より自然でなめらかな口語になっている。まあ、戦後だし、日本外史っぽい口調は嫌われたということだ。

白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、
白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。
つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、
御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。
神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。
御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、
白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、
江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。
ネットで検索しても何もわからんのだが。
このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。
案外何もわかってないのだなあ。