J-Texts

[j-texts](http://www.j-texts.com/)にはいつもお世話になっているのだが、
完全に個人が運営しているサイトで、
よく見ると広告もけっこう入っている。
もしかすると広告収入等で運営されているのだろうか。

塙保己一

[塙保己一資料館 温故学会](http://www.onkogakkai.com/)。

盲目の身で群書類従を編纂。
どういうふうに関わったのだろうか。
すべて暗記???

ヘレンケラーが幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と両親より教育されていて、
昭和12年には来日し、記念館を訪れている、というのもすごい。

ふと思ったのだが、

中国はいずれ東アジアの盟主としてアメリカと直接対決するときがくるだろう。
そのとき中国は、かつて東アジアの盟主として戦わねばならない立場にあった国を想起するだろう。
アメリカが真珠湾に艦隊を集結してアジアを威嚇していた時代を思い起こす。
実際、今それはグアム、沖縄、横須賀まで前進している。
そのとき中国と日本は初めて和解できるかもしれない。
韓国北朝鮮の諸問題についても同時に解決するだろう。

> 百年の後の世かとぞ思ひしに今このふみを眼のあたりに見る

東条英機、[パール判事](http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/0815-pal.htm)の判決を読んで。

古代豪族

青木和夫「古代豪族」を読む。
特に「将門記」の辺り面白いが、詳しいのは良いのだが、長くて眠くなる。

簡単に言えば高望王が平姓を賜って臣籍に下り、
上総国の介として赴任して以来、桓武平氏は複数の国にまたがって勢力を広げた。
これは板東平氏一族どうしの連鎖的な私闘に発展し、平将門は叔父らを破って勢力拡大に成功した。
ある時、将門が倒した叔父・国香の子・貞盛は常陸国の国府に立てこもって将門と戦い、
将門は貞盛を打ち破ったが、国庁の印と鍵を取り上げてしまった。
これが律令国家の権力機構の一部を奪ったことになり、謀反のきっかけとなる。
将門はさらに他の国の国庁も次々に襲って印と鍵を奪った。
国司らは信濃国の国府に逃れ、
信濃国から都に謀反の知らせがもたらされた。
こうしてとうとう紛れもない謀反人になってしまった。

ということはつまり単に平氏一族内の相続・派閥争いが貞盛と将門の対決という構図に収束していったのだが、
将門が国府を次々に襲撃するなどということがない限り、将門と貞盛どちらが官軍どちらが賊軍ということにはならなかったわけで、
まあやはり将門にも落ち度はある罠。

鎌倉宮

初詣を兼ねて鎌倉に行ってきた。
未だに参拝客は多い。
車が多く道が狭い。
要するに混雑している。

JR鎌倉駅東口から若宮通り段葛を鶴岡八幡宮入口まで歩いてそこからいったん右に折れ、
まずは宝戒寺に行く。
拝観料100円は他と比較すれば別段高くもない。
ここは北条義時が建てた小町邸の跡で以来北条執権の屋敷となり、
北条高時はここからさらに東南裏手葛西ヶ谷にある北条氏菩提寺の東勝寺で討ち死にし、
小町邸跡に高時の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利高氏に命じて天台宗宝戒寺を建立したと言う。

宝戒寺境内にある徳崇大権現とは北条高時を祭る神社らしい。
これすなわち北条得宗家代々の霊廟という意味だろうと思うとなんとも畏れ多いことである。
この中に高時の木像が置かれているらしいが、気づかなかった。

北条氏の屋敷というのが、当時どのくらいの規模でどの範囲まであったのかなどは、
今となってはさっぱりわからない。

鐘を撞かせてもらう。
庭にリスが居る。
あと、ヤブツバキ。
東勝寺跡の高時の墓を見るのを忘れた。
今度の機会に訪れよう。
幕府やら御所やら執権の屋敷やらの詳しい配置が知りたい。

> もののふのほろぼされたるやかたあととぶらふ寺となりて残れる

鶴岡八幡宮方面へ戻り、池の周りに作られた牡丹園400円にはいる。
ボタンといえば花札では六月だが、
一月頃に咲くものや春に咲くものが普通らしい。
数も多く、花も大きくて極めて美しい。

そのあと池の中にある旗上弁天社へ。
源氏の白旗が乱立、白鳩やその他水鳥などが美しい。

静御前が舞ったという舞殿(当時はなかった)、実朝が暗殺されたという大石段を通り、
本宮を参拝。

> 鶴の岡のやはたの宮のきざはしをのぼれば君のおもほゆるかな

宝物殿200円。

> しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

これは本歌が伊勢物語で、

> いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

しづというのは本来は「賤」と書いて要するに貧しい者とか田舎者とか言う程度の意味だが、
静御前の「静」にかけてある。
まあ、これまた良くできた伝説と言うべきだろう。

境内の白旗神社方面へ向かうと路傍に句碑あり

> 歌あはれその人あはれ実朝忌

毎年実朝にちなんだ句会が開かれるらしい。

鎌倉国宝館の仏像や肉筆浮世絵などを見る。
[葛飾北斎筆「酔余美人図」](http://guide.city.kamakura.kanagawa.jp/Link/kokuhoukan/1ujiie-33.html)
(つまり酔っぱらって二日酔いの女性の絵)、
司馬江漢「江之島富士遠望図」などが少し面白い。

それから頼朝の墓へ向かう。
ここにも白旗神社がある。
ここの狛犬はなかなか古風で小ぶりだが味わいがある。
墓から見下ろす平地、小学校辺りに最初の幕府(大蔵幕府)が置かれたという。

そこからすぐ近くの山腹、ややわかりにくい場所に、
大江広元、島津忠久、毛利季光の墓が三つ並んである。
も少し厳密に言えば真ん中に大江、そのすぐ隣に毛利、参道が分かれるが大江の反対隣が島津。
毛利季光は大江広元の四男で毛利氏の祖、
島津忠久は島津氏の祖。
この三人の墓が頼朝の墓の近く、最初の幕府を見下ろす岡にあるのは、
何か意味ありげはある。
[追記](/?p=2270)。

さらに行くと荏柄天神という神社があるが、
ごく普通の天神さん。
大蔵幕府の鬼門に当たるという。

さらに行くと官幣中社[鎌倉宮](http://www.kamakuraguu.jp/)がある。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が祭られた神社で、
いわゆる[建武中興十五社](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E4%B8%AD%E8%88%88%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%A4%BE)の一つとして一括りにされているが、
創建が明治二年と維新からまもなく極めて迅速、
明治政権によって新たに作られた神社の中では最初期に当たる。
そのせいもあってか規模は必ずしも大きくはない。
本殿後には、護良親王が幽閉されたという岩窟がある。
よくわからないが中はかなり広い。
しかも二段になっていて、奥がまた一段下がって広いらしい。
いったい鎌倉というところは至る所に岩窟がうがたれていて、
それは多くは墓か倉庫のようなものだろう。
先の大江氏や島津氏の墓もやはり岩窟である。
普通に考えればこんなところに九ヶ月も人が住めるはずがない。
太平記の記述では土蔵となっているから、
実際にはこんな穴の中には居なかったと思うが、
しかし、伝説としてはすさまじいものを感じた。

> すめらぎの皇子と生まれて野に山に仇と戦ひ果てし君かも

五箇条のご誓文と教育勅語を合わせた碑などが建っている。
また、明治天皇が行幸したときの行在所が今は[宝物殿](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kamakura-gu_Treasure.jpg)となっていて、
かなり手狭な建物だが、
中には明治天皇下賜「鎌倉宮」の額、
東郷平八郎「制機先者勝」(機先を制する者は勝つ)の掛け軸、
山本五十六「至誠奉公」の額、
乃木希典「忠孝」の額、
それから伊藤博文、勝海舟、山岡鉄舟らの何が書いてあるかよくわからない書などが、
かなり無造作に展示されているのだが、
これらは特に断り書きもないのですべて真筆であろうと思われる。
私自身、大船の本屋でるるぶ鎌倉を買うまでこの神社の存在すら知らなかったのだが、
なんというおそるべき宝物群であろうか。
思うに、明治神宮も東郷神社も野木神社もなかった明治時代には、
この鎌倉宮の意義はもっと重かっただろう。
そのほか、大塔宮護良親王の故事事績を表した錦絵なども展示されているのだが、
なんちゅうかあまりにももったいない。
こんだけのコンテンツがありながら、
あまりにも宣伝しなさすぎる。

護良親王の身代わりになって吉野城で切腹して果てた村上義光を祭神とする村上社も同じ境内、
本殿向かって右手に祭られている。
宮の身代わりに死んだ義光は、今も参拝者の身代わりに厄払いの神となっている。
つまり、
「身代わり様」と呼ばれ、
「撫で身代わり像」というものがあってこれをなでさすると厄を身代わりしてくれるということだろう(2004年に出来たらしい)。
また、千円ほどで「身代わり人形」というものが売られており、
この人形になにやら願い事を書いて奉納すると厄が払えるとのこと。
吉野城軍事や村上義光親子の忠節を知っていればあわれで恐れ多くて、
村上義光にこれ以上厄除けで働いてもらおうなどとは思わないと思うのだが。

> 身代はりにいのちささげて今もなほ人を助くる神あはれなり

他にも厄割り石というかわらけが100円で売ってある。境内に何カ所もある。
これを投げつけてこなごなに割ってストレス発散すれば良いらしいのだが、
なんかもう由来的にはすごくまがまがしいものを感じてしまう。

藤原保藤の娘・南の方を祭る南方社が本殿の隣に配置してある。
南の方とは護良親王が幽閉されたときにお世話をし、死後も御霊を弔ったとのこと。
写真はもろ逆光でピントも手前に合ってしまっているが、これまた2004年に現在の位置に移したという。
親王の隣に寄り添うよう仲良くという配慮だろう。

惜しむらくは創建があまりにも早すぎて、神社の規模が小さすぎることと、
また戦後民主主義的にはやっかいな存在となって、
積極的に観光ルートに乗せられてないのだろう。
鎌倉にある平凡な神社の一つ、観光スポットの一つになってしまっている。

さてここから引き返して今度は鶴岡八幡宮の反対側にある北条政子と源実朝の墓に向かう。
ここもまた岩窟。
他の墓同様にきわめてささやかなものだ。
ここは寿福寺という寺の裏の墓地。
寺から直接いけないのは、つまり途中の岩窟が危険なので迂回しなくてはならないからだろう。
墓地の木の上でもごもご鳴いている動物が居ると思ったらリスだった。
鳴き声はかわいくない。

> もののふのふりにし墓をたづねむと登れば険し鎌倉の山


ここから若干引き返して険しく細い山道を登って源氏山公園の頼朝像とご対面し、
あとは山道を降りる途中にある銭洗弁天に寄って帰った。
あまり期待してなかったがここはなかなか愉快なところで参拝者も多い。
参道がやはり岩窟。
岩窟を抜ければそこは銭洗弁天だった的。
元はと言えば鎌倉山中の岩穴に湧く泉だったのだろう。

だいたいに、京都や日光東照宮のようなものを想像していると北条氏ゆかりの遺跡というのは総じて地味であって、
実際にはそんな派手で宮びなものではなかったのだろうなと思う。
鶴岡八幡宮の社殿にしてもこれはおそらく家康入府以後に東照宮的な趣味で再建されたものであり、
頼朝や実朝の時代にはどんなふうだったろうか。
こんな華美ではなかっただろう。
鶴岡八幡宮、銭洗い弁天、小町通りや若宮通りあたりが人混みが激しいが、
あとはわりとひっそりしていて気持ちよく観光できた。

武士の家訓

桑田但親著「武士の家訓」を読む。
少し面白い。

北条時重(義時の子):
> 力があり、持ち得る自信があっても、あまり大きな太刀や、ことさら目立つ具足を持ってはならない。他人に恨まれることになるからだ。

朝倉敏景:
> 名作の刀とか脇差などというものは、とくに欲しがるべきではない。その理由は、たとえ万疋の太刀を持っていても、
百疋の槍を百丁求めて、百人の兵士に持たせたならば、攻防にも大いに役立たせることができるのである。

朝倉宗滴:
> 内の者に侮られているなどという気持ちが主人に起こってきたとすればそれはもはや自分の心が狂ってきたと悟って良い。

武田信繁:
> 敵に向かう場合、千人でもって正面から当たるよりも、百人でもって横合いから攻めた方が、よほど効果が上がるものだ。

毛利元就:
> 我らは、思いの外多人数の者を殺しているのである。それ故、この応報は必ずやって来るものと、あなた方に対しても、
内心気の毒に思っている次第であるが、あなた方も十分この点を考慮して、何事に限らず常に慎んでいただきたいのである。
万一、元就が存命中にこの報いが来るとすれば、別に申し上げる必要もない。

北条早雲:
> 何事も、しなくてよいことは他人に任せれば良い。
わずかでもひまがあれば、何かの本でも懐に入れておき、人目を遠慮しながら読めば良い。

北条氏綱:
> 大将だけでなく、およそ侍たるものは、義をもっぱらに守るべきである。
義に違ったならば、たとえ一国二国切り取ったとしても、後の世の恥辱はどれほどかわかったものではない。

> 侍から地下人や百姓に至るまで、それぞれ不愍に思うべきである。

> 侍たるものは、高ぶらず、てらわず、それぞれ分限を守るのを良いとする。

> 万事について倹約を守るべきである。

> 手際の良い合戦をやって大勝利を得て後、おごりの心ができて、敵をあなどり、不行儀をすることは必ずあるものである。
慎んだがよい。こんなにして滅亡した家は昔から多い。勝って兜の緒を締めよ、ということを忘れてはならない。

ふおおっ。これが「勝って兜の緒を締めよ」の出典か。
天文十年(1541)五月二十一日、後北条氏二代目当主氏綱遺訓。

島津忠良:
> 無勢とて敵を侮ることなかれ多勢を見ても恐るべからず

> 敵となる人こそはわが師匠とぞおもひかへして身をも嗜め

>少なきを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなく十六夜の空

そのままそっくり。

実朝が歌を詠み始めたのは14才のとき、新古今集が成立した時期に相当するという。
実朝は新古今が大好きで

> 水鳥の鴨のうきねのうきながら玉藻の床に幾夜へぬらむ (金塊集)

> 水鳥の鴨のうきねのうきながら浪の枕に幾夜へぬらむ (新古今集)

だから本歌取りどころかまるでそのままの歌もあるのだな。
いやはや。

だがまあ、金塊集の中でも上のような初期の単なる習作と後期の独自の歌とは見分けがつくものだ。
死ぬ間際ということは習作の段階をとっくに過ぎているわけで、
いくら即興だからといってまずい模倣作など詠むまいと思うが。

定家から「[近代秀歌](http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/kagaku/kindai.html)」という本をもらったそうだ。

斎藤茂吉によれば後鳥羽上皇の歌の影響があるそうだ。
そういわれればそんな気もする。

小島氏による日本文学大系金塊集の解説によれば、
実朝は万葉集から直接影響を受けたというよりは、
奥義抄もしくはそれに類する歌学書から影響を受けていた可能性の方が高いと言う。
また新古今集にも万葉集の影響があるが、実朝は新古今集からではなく、
独自の影響を受けていると言う。

実朝の真作かもしれない。

> ものゝふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

この歌は定家本系統には無いが、貞享本にはある。
なので実朝の真作かもしれない。

> 宮柱ふとしき立てて万世に今ぞさかえむ鎌倉の里

こちらも同様。

だが、未だにかなり疑問もある。

実朝歌拾遺というのはつまり、
定家本には無くて貞享本にある64首、という意味なんだなきっと。
ここには割と良い歌がそろってるんだよね。
どうしたもんかな。

実朝の謎は深まる

図書館から、いくつか本を借りてくる。

太宰治「[右大臣実朝](http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2255_15060.html)」。
1943年。
なんか異様に長い小説。
実際に長いというより長く感じる小説。
戦争中になぜこんなものを鬱々と書いていたのだろうか。

小林秀雄「実朝」。
いきなり吾妻鏡。
小説は真実より深く行くことがあるからとか、なんか予定調和説支持みたいなことを、
ぶつぶつ書いている。
「予定調和ありきでいいじゃん」みたいなオーラを感じるこの人は。
いいじゃん事実は事実で。

で、佐佐木信綱が昭和四年に金塊集の定家所伝本を発見してその奥書に建暦三年という日付がはいっていると言う。
建暦三年は1213年。
実朝が死ぬのは1219年。
小林秀雄はそれまでは、
同じ年の11月23日、定家から相伝の万葉集が届いて、それから万葉調の歌の習作を詠み始めて、
約5年間の間の歌を集めたものが金塊集であると考えられてきたのだが、
佐佐木信綱の発見によって、
それらの歌は1213年以前に詠まれたということがわかった、としている。

岩波書店日本文学大系「山家集・金槐和歌集」の中の小島吉雄校注「金槐和歌集」。
1961年初版。
書かれた順番で言えば先に挙げたものよりは後に書かれていて解説も詳しい。

佐佐木信綱氏は昭和四年五月に藤原定家所伝本を発見。
定家が一部自書し、他を側近が書き写し、663首の歌を載せている。
建暦三年十二月十八日の奥書がある。
佐佐木信綱氏によって岩波書店から復刻出版された。

実朝が死んでから編纂されたと考えられる貞享四年板本というのがあり、
こちらにはわずかに64首しか追加されていない。
つまり、実朝が1192年に生まれて1213年の22才までに663首を詠んだのに、
それから5年間ではわずか64首しか詠んでないことになる。
これはおかしい。
疑問点その1。

定家から万葉集をもらったのと、万葉調の習作をたくさん含む金塊集の原稿を定家に渡したのがほぼ同時期。
これがまたおかしい。
疑問点その2。
では定家から万葉集をもらう前から実朝はある程度まとまった数の万葉集の歌に接することができたのだろうか。
当時それほど万葉集というものは入手しやすかったのか。
しかも京都から離れた鎌倉で。
思うに万葉集というものは、当時は京都の一部の歌詠みの公家の家系にしか伝わってなくて、
実朝が所望したのでわざわざ定家が万葉集を送ったと見るべきだろう。
だから、実朝はもちろん万葉集の歌を断片的には知っていたかもしれないが、
膨大な習作を詠むほどにはそのサンプルとしての絶対数が足りなかったに違いない、と思う。
たとえば万のサンプルがあってやっと百の習作が作れる。
やはり定家から万葉集をもらってから詠んだ歌が金塊集の大部分を占めていると考えるのが自然なのだが。

たとえば実朝は「けけれ」のような古代の関東方言をわざと歌に使う人である。
実朝の時代にも「こころ」を「けけれ」と言っていたのではあるまい。
万葉時代の関東方言が万葉集に残っていてそれを見たから自分の作に使ってみただけのことである。
つまり実朝の

> 玉くしげ箱根のみ海けけれあれやふた国かけて中にたゆたふ

は万葉集の

> 甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり臥せる小夜の中山

を元にしたものである。
どちらも東海道を旅している歌なので、どんぴしゃですよね。
ついでに

> 東路の小夜の中山越えていなばいとど都や遠ざかりなむ (新千載)

このように実朝はかなり多数の万葉集の歌を参照しており、その数が多ければ多いほど、
定家から万葉集の完全本をもらったあとに金塊集が成立したことの傍証にはなり得よう。

小島吉雄氏も
> この本に収載せられた歌が全部建暦三年十二月以前の作であるとする従来の通説も、
疑えば疑える余地があるわけであって、

と言っており、この通説とはつまり佐佐木信綱から小林秀雄に至る説という意味だろう。

> 厳密に言えば、この本の成立時期並びに成立事情は今のところ明確ではないということになるのであるが、
現段階では、建暦三年十二月にまとめられたという積極的な証拠もない代わりに、
これを否定すべき材料もなく、
内容的にもそれで矛盾が生じないので、
一応、建暦三年十二月までの歌をまとめたものだろうということにしているわけである。

と、かなり疑念を残した書き方をしているように思える。
他にも補注の中に

> 建保二年三月の晩、帰館してから酒杯を酌み交わして翌日実朝も二日酔いに悩んだ由の記事がある。
ただし、この歌は定家本に載っている歌である。もし定家本を建暦三年十二月以前の成立とみるならば、
この歌を建保二年の作とみることができない。
その点にいささか問題はあるが、
建保二年四月、二所詣より帰館した翌朝の趣を歌にしたのであろうというふうに考えることは、
わたくしは幾分執着するのである。

などと書いていて、小島氏も、この二所詣というのが吾妻鏡の中で日付がわかるので、
二所詣を詠んだ歌が金塊集成立年の証拠になるのではないかと、
いろいろ調べてみた形跡があるわけですよ。
なんか悔しさにじませてるよなあ。
ちなみにその補注の元の歌とは

> 旅をゆきし跡の宿守おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ

のこと。

金塊とは「金」が「鎌倉」を意味し、「塊」が大臣を意味する。
金塊で鎌倉の大臣を意味する漢語表現だという。
なるほど、「まづ塊より始めよ」の「塊」ね。
これも佐佐木信綱説。