英語ページへのアクセス

英語でのアクセスは微増くらいで、滞在時間も1秒くらいなので、まだ全然多くはない。google Adsense で表示される広告もすべてが日本語なので、英語を読みに来る人もおらず、また、私のサイトに英語で広告を出そうという人もいないという状況だ。

しかしながら英文で検索かけた場合の検索結果がだんだん上位に入るようになってきている。google検索における露出は確実に増えている。サイトを訪れる人を増やすきっかけにはなるはずだ。特に crazy yakisoba asakusa などといった特定のキーワードだと上がりやすい。fukuchan asakusa だとしかしかなり多くのサイト(たとえば食べログなど)が書いているので私のところは上がりにくい。

焼きとん屋のページには Amazonアソシエイトでホルモンの広告などを貼るようにしたが、まだまったく収益化はされていない。そもそも海外の人が amazon.co.jp で注文しても配達されるわけがないのだから、amazonアソシエイトの効力は日本語ページにしかないのではなかろうか。google Adsense に比べて amazonアソシエイトは日本縛りが強く、世界的に収益を得るには adsense に頼るしかなさそうな気がする。

amazon.com のアソシエイトに移行するというのもアリではあるが、今はまだそこまで手を出す気になれない。

いずれにしても今のところまったく収益化はできてない。ただ検索上位にあがってくるページが増えている、というだけだ。日本語ページの収益化は考えてないし、そもそも不可能だと思う。

まともかくある程度の仕込みは終わったので後はしばらく様子見か。

こちらのブログからはもうブログ村のリンクなどは削除した。私には必要がない。

楽天アフィリエイトだが、ページの内容とまったく関係ない広告を載せても誰も興味を持たず、クリックするはずもない。amazonアソシエイトのほうがまだ可能性があるといえるが、しかし、関連があったとしても広告を見る確率は極めて低い。よっぽどアクセスがなければ(つまりかなりのインフルエンサーのサイトでなければ)効果は見込めまい。

といったような世の中の仕組みを知れたのは、それはそれで収穫だったというしかない。

youtube premium を始めた頃はずっと youtube ばかり見ていたが今じゃ何も目新しくない。何もかもあらかじめわかってしまってつまらない。毎日見るのがいけないのだろう。1週間に1度くらいみれば少しは面白いかもしれない。

南北朝

中国で南北朝と言えば、北と南で別々の王朝が立っている状態で、特に隋によって統一されるまでの時代をいう。

日本で南北朝というと京都が北朝で吉野が南朝という時代を言うのだが、これは別に全然南北朝でもなんでも無い。日本は南北に細長いから、関東以北と関西以南、だいたい木曽川あたりを境にして分裂した状態を南北朝というはずだ。しかし後醍醐天皇の南朝は単に一部の地方を掌握していた政権というだけであって、日本全体は東北から九州まで北朝が支配していた(九州や東北、信濃を、一時期南朝の皇子が支配していたことがあったが、要するに南朝と北朝が虫食い状態になっていただけで、南と北にきっぱり分かれていたのではない)。これを南北朝と言うから日本史の本質が見えなくなる。

日本における真の南北朝とは、足利時代に室町将軍と鎌倉公方が対立していた状態を言うべきだ。しかしこのことの重要性を認識している人はほとんどいない。なぜ対立したかといえば将軍が自ら関東を支配せず、京都になんかいたからだ。

室町将軍と鎌倉公方の対立は両家の血筋が離れていくにつれて深刻化していった。京都と関東と、二つの幕府があるかのような状態となった。そのため足利義教は鎌倉公方を滅ぼしたが、自らも暗殺された。これによって足利幕府の権威は失墜し、南北朝(足利幕府の)が成立した。室町将軍は関東に新しい鎌倉公方を送ろうとしたが失敗し、鎌倉公方は北関東に逃げて古河公方となり、関東の守護らは鎌倉を留守にして領地に住むようになった。つまり典型的な封建領主になった。これが戦国時代の始まりだ(伊豆における北条早雲の自立をもって戦国大名の嚆矢、守護職の崩壊とする説もまあ良いのだが、古河公方の成立を戦国時代の始まりとしたほうがもう少しわかりよい。応仁の乱を戦国時代の始めとするのは最悪の解釈だ。事実はまったく逆で、戦国時代が始まったので応仁の乱が起きたのだ)。同じことが京都でも起きて、応仁の乱によってそれが決定的となり、京都にいた守護らは京都を留守にして領地に住むようになった。

こうして足利幕府の守護職は有名無実化し、守護の時代から戦国大名の時代に移行した。

こうしてみると足利時代の歴史というのは極めて単純明快である。京都と関東の両方に同時に目を配ることで初めて足利時代とはなんだったかが、わかるのだ。日本人は南北朝というものが何かわかってないから室町時代がまったくわからないし、応仁の乱もさっぱりわかってない。

曰く、関東は関東で、京都は京都で勝手にバラバラに戦争していた。日本人は政治音痴だった。将軍は政治をほったらかしにして能楽と茶の湯にふけっていた。応仁の乱は京都でなんとなく始まった東軍と西軍(つまり南北朝)の戦いがだらだら長期化しそれが戦国時代を招いた、などというバカげた認識しかいまだにない。日本の歴史学者はほんとうにバカしかいない。日本史ファンもみんなバカだ。足利時代ほど面白い時代はないのに、源平合戦とか、戦国時代か、幕末維新にしか興味がない。

足利時代に比べると徳川時代と鎌倉時代は、関東も京都も同じ幕府が同時に支配していて非常に安定していた。それは、関東に幕府を置き、京都に出張所を置くというやり方が、日本全土を支配するのに理に適っていたからだ。近畿を日本の政治的中心にするということがそもそも間違っているのだ。特に徳川時代は、当時としてはこれ以上望むべくもないほどに安定していた。それは徳川幕府時代の儒者らが足利時代や鎌倉時代を良く研究していたからだ。特に新井白石や松平定信が幕政に貢献したが、ほかにも多くの優れた学者がいた。

もし日本に関東平野のような広大な平野があと二つも三つもあったら日本という国の歴史はどうなっていたかわからん。南北に長いだけだったので二つに分かれることはよくあった。その場合常に関東が京都を制圧してきた(西の薩長がクーデターを起こした明治維新は極めて珍しい例外だ。太平の世が続きすぎて坂東武者もすっかり腑抜けになってしまった。広大な荒野だった関東平野は完全に開発され尽くし、人民も飼いならされてしまった)。それでも皇統がゆらぐことはなかったが、関東に匹敵する武力の中心(つまり武士が疾駆する広大な原野)が、ほかにもあったら、地方政権がいくつもできてしまい、国や皇統も簡単に分裂し、また統一したりを繰り返したに違いない。そのことは日本にとってよかったのか悪かったのかなんとも言えない。

しかし日本には関東平野のような広大な未開拓の原野は一つしかなかった。狭苦しい横須賀を旅行していてそんなことを考えた。埼玉や千葉など、平らなのが当たり前なところに長い間住むことがなかったらそんなことを考えることもなかっただろうと思う。

横須賀

横須賀に行ってきたのだが、京急横須賀中央から三崎口方面へ延びている三崎街道というものが、横須賀のもともとの繁華街であったらしく、ここに今もアーケードが残っている。春日野などは大正時代から続く老舗らしい。立花食堂も気に入った。ヨネヤは昔の蔵を改造して新しくできた飲み屋で、立食が気にならなければ良い店だと思う。

紅五五六(クレ556)という風変わりな名前の店にも行った。地魚中心の店三崎街道は明らかに旧道とバス通りが並走しており、紅五五六は旧道の入口あたりにある。

三崎商店街で腹いっぱいになってしまい、シェンムーゆかりの Honey Bee にはいきそこねた。持ち帰りにして翌日の朝食にしようかと思ったが、持ち帰りの窓口はあるのだが閉まっていて、そこは諦めてどぶ板通りの東の入り口あたりにある Hera’s Loungeという店に入った。

後で考えると、Honey Bee は人気店であり、金曜の夜だからそこそこ空いていたのだ。しかも Honey Bee は店内の雰囲気が売りなのでわざわざ持ち帰りにする客などいないのだった。Hera’s Lounge はメニューが spicy chicken sandwich としか書いてなかったのでチキンかと思って買ったら普通のビーフのハンバーガーだった。割とおいしかったし、たぶんあの時食べてなければ一生食べることはなかっただろうからまあまあ満足している。

というわけで花松という花屋など、聖地巡礼して回ったのだが、この花屋が入っているのがまた、GHQ司令で闇市をまとめた感じの実に見事な雑居ビルであった。同じようなビルで三笠ビルというのがあるが、こちらは三笠ビル2号とでもいうのか。さいか屋という創業150年というデパートにも行ってみた。そんで本町一丁目のバス停からバスに乗り横須賀港へ。シェンムーと同じだ。停泊したイージス艦や戦艦陸奥主砲などを見て、JR横須賀駅から帰った。

割と強行軍だったのでもう一度くらいは行っても良いかもしれん。

久里浜と九十九里浜

九十九里浜は日本書紀には玉浦と出てきて、浜の両端には玉前という神社があるというが、どうも九十九里浜は最初は久里浜と呼ばれていたのではなかろうか。房総半島と三浦半島では地名に重複が多いことが知られている(四国や近畿地方とも)。これは人が移住することで元住んでいた地名を移したからだと考えられるが、のちに、房総半島と三浦半島でまったく同じ地名があると紛らわしいから、房総の方の久里浜を九十九里浜と呼ぶようになったのではなかろうか。

また、久里浜とはハマグリがとれる浜というような意味ではなかろうか。

geminiで英訳

gemini に英作文を手伝ってもらうのが面白いのは、翻訳のプロの先生にアドバイスを受けているような気分になるからだろう。実際、もし人間の先生にこの程度の個人レッスンを受けようと思えばどれほどのお金とてまひまと時間が必要だろうか。なんとなく英訳のコツがわかってくるような気にもさせられる。少なくとも今まで自分がどんなに下手だったかは気付かせてくれる。

ただの錯覚かもしれないが、励みになるのは良い。

楽天アフィリエイトがまったく役に立たないのは笑える。まだ google adsense のほうが手ごたえを感じる。完全に一から再構築しているので、まったく収益化には至っていないのだが、まあすべてはこれからだ。

せっかく gemini のアドバイスに従って英語の wordpress と日本語の wordpress を分けたのだが、日本語の(つまりこちらの)ページにも英文検索でひっかかるようになった。わけがわからない。まあしばらくはどちらも残しておき、そのうち整理できればしよう。

wordpressを分ける

geminiなどに相談してみた結果(笑)、英文の記事と和文の記事を多言語化プラグインを用いて書き分けても、SEO的にはあまり効果が無いらしく、もう一つある意味休眠中というか、何に使おうか決めかねていた wordpress のサイトがあったから、こちらを英文の a sketch of asakusa とし、こちらはもとの「はかもなきこと」に戻すことにした。

楽天アフィリエイトを貼るようになってわかったことはやはりこんなものはまったく儲からない、ということであった。英文のページから収入を得るには google Adsense くらいしか選択肢はないと思うが、こちらの効果はまだわからない。長く続けていると多少は効果が出てくるかもしれないし、まったく無駄かもしれないが、英文で google 検索の上位にでてくればそれなりのアクセスは稼げるのではないかと思っている。へんてこな広告はだいたいブロックできているように思える。

英文へのアクセス

gemini や google translate に相談しながら(笑)英文ページを作るのはとても楽しいのだが、google search console や analytics をみても、これらのページが閲覧されている形跡がまったくないのはがっかりだ。たとえば Daruma などで、せっかく「鶯谷」を工夫して a valley where bush warblers are singing と訳してみたり、初音小路を first chirp ally と訳したりしても、まったく張り合いがない。

google というものは、日本人には日本のサイトばかり、外国人には英語のサイトばかりみつけて見せるものなのだろうか。

勝手な思い込みで、世の中にまったく必要とされていない努力をしているようで嫌になる。

Kindle で本を出したときもそうだった。私がどんなに良い小説を書いたつもりでも誰も読まない。いっぽうで、エウメネスはヒストリエという漫画のついでに私の小説も注目されていまも読まれている。エウメネスは読まれる価値のある小説だと私も自負してはいるのだが、それ以外の小説がエウメネスより劣っているとは思えない。同じ作者、つまり私が書いたもので大差あるわけがない。

なんかしらの営業が必要なのはわかるが、営業の素人、というより、世の中の仕組みも資本主義の原理も知らない私が広告なんか出したところでドブに金を捨てるようなものだ。

結局私たちは、教育を受けて、大学を出て、会社に所属しないと金儲けができない存在なのだろうか。自分の力で生きていくことはできないのだろうか。

しかし自分が撮った写真を整理してみるとこの2年間ほど恐ろしく浅草で遊び回ったことがわかる。よくもまあこんなに遊んで死ななかったものだ。こんなに遊んだらもうこの世には何も楽しみなんて残ってなくて当たり前だ。

定年が近づくと私のように今の仕事に一切の情熱を失って、辞めた後何を老後の楽しみにしようかってことばかり考える人がいる一方で、辞めるぎりぎりまで可能な限りがんばろうとする人がいるように思う。私には理解できない。今やっていることを人に評価してもらって仕事を辞めた後も知り合いに覚えておいてもらいたい、尊敬してもらいたいと思っているのだろうか。そんな人は滅多にいない。もし万一いたとしても、死んだあとには何も残らないようなことに私だったら、頑張ったりしない。そんなことにあくせくとするくらいなら、その時間ぼーっと楽に過ごしたい。

山形有朋が伊藤博文に詠んだ歌

ollama + open-webui + gemma3:27b

伊藤博文が暗殺されたときに山県有朋が詠んだ歌について教えてください。

伊藤博文公が1909年(明治42年)にハルビンで暗殺された際、山県有朋は以下の歌を詠んでいます。

「ああ友よ 帝に仰ぎて 死を観る 白き髪の 我に託せ」

この歌は、伊藤博文の死を悼み、彼が国家のために尽くした人生と、その遺志を受け継がなければならないという強い決意を表しています。

  • 「友よ」:伊藤博文との長年の親交と、深い友情を表現しています。
  • 「帝に仰ぎて」:伊藤博文が天皇陛下への忠誠を誓い、国家のために尽くしたことを示しています。
  • 「死を観る」:伊藤博文の突然の死に対する衝撃と悲しみを表しています。
  • 「白き髪の 我に託せ」:自身の老いた姿を自覚しつつ、伊藤博文の遺志を受け継ぎ、残された者が責任を負うことを決意しています。

この歌は、伊藤博文の死を悼む山県有朋の深い悲しみと、国家への責任感、そして伊藤博文の遺志を継承する決意が込められたものとして知られています。

参考文献として、以下のウェブサイトもご参照ください。

ご参考になりましたでしょうか。

ちなみに有朋が実際に詠んだ歌は次のものである。

かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ