選挙の効用

選挙は予想通りの結果となりみんないちいち落胆したり驚いたりしているのだが、どうしてみんなそんなに選挙というものに期待できるのだろうか。どうして毎度毎度裏切られることができるのだろうか。いつも同じことの繰り返しではないか。なぜいつもそんな無邪気に信じられるのだろうか。2500年前、古代ギリシャの時代から第二次大戦後の現代にいたるまで、選挙などというものは大して機能してこなかった。

おそらくこれは、教育機関やテレビなどからしつこく繰り返し繰り返し、選挙は正しいものであると刷り込まれているからそう思い込んでいるだけではなかろうか。

選挙はしかし、選挙以外のもの、つまり暴動とか革命とか戦争とか、或いは独裁に比べればずっとましであるのは明らかであって、人々が唯々諾々と選挙結果に従っておとなしくしている日本では、的確な首長を選ぶという以外の目的、つまり治安とか安定した政局を維持するということにはほぼ適合した手法になっているのである。人々は選挙をやりましたという事実で牙を抜かれておとなしくなってしまう。誰も国会前や都庁前に座り込んだりしない。銀座をデモ行進したり、ましてスーパーを襲撃して略奪などしない。これがほとんど唯一の選挙の効用というものであろう。

なぜいちいち投票率を気にするのか。不思議でならない。これも刷り込みによるのだろう。投票率が高かろうが低かろうが、泡沫候補が多かろうが、選挙ポスターがふざけていてやぶくやつがいようが、ともかくも首長を選んで誰もが一応納得して政治を委任している状態、これを選挙以外で実現することは不可能なのであって、また今回選ばれた以上の首長を選ぶ具体的なメソッドが現在の我々にないのであれば、もうこれであきらめるしかないのだろう。さまざまな慣習や既得権益が現状を安定解にしてしまい、身動きとれなくしている。

西欧諸国はたいてい、国王が議会を招集して、その議会で選挙を行うというものだった。神聖ローマ帝国でも皇帝は選挙で選ばれることになっていた。ローマ教皇も選挙で選ばれていた。ヨーロッパ人にとって選挙というものは1000年以上の習い性になっていて、たぶんそれ以外の発想は彼らからは出てこないのだ。そして国王なり領主なり血族というものがある種のスタビライザーになっていて、選挙の暴走を抑えていた。そのノウハウはアメリカ式大統領制にもおそらく、表面にははっきり見えない形で引き継がれている。選挙だけで機能しているわけではないはずだ。

今の民主主義というものは西欧式の民主主義が下敷きになっており、その試行錯誤と実績の上に成り立っているので、じゃあほかのやり方を採ろうとしてもなかなか代替案は出てこないし、やったとしてもたぶんうまくいかない。東洋式を捨てて西洋式を取り入れた日本人もなんとなく西洋式を信用してそれで今までなんとかやってきたので、このままでいいんだろうと信じ切っているが、よく考えればおかしなことばかりだ。

世の中はなんでもかんでも最適化すればよいわけではなく、多少無駄なこともなくてはならないのだろうが、いまの首長選挙はあまりにもひどすぎではないか。あんなものが機能しているとはとても思えない。

私も昔は、室町時代は暗黒時代で、政治システムが機能してなくて、世の中が乱れで戦国時代になったんだと思っていたが、しかし社会的インフラがほとんどまったくなかった当時の戦争というものは今の公共事業のようなもので、戦争によって政府ができ、道ができ、農地が開拓され、産業が振興されたのだから、人民に利益がなかったはずがない。当時民主制というものさえなかったとしても、社会が動き作られていく過程で、それなりに優秀な人材が必要とされ、国政に登用されていた。今と比べてほんとうに昔が劣っていて今が優れているといえるだろうか。少なくとも今の首長選挙を見ていると、どっちがどっちということはできないと思う。

ところで今回、都知事選で石丸伸二なる人物が2位になったが、これは石丸氏に人気があったというよりも、小池氏と蓮舫氏があまりにもキモいので、この2人以外の誰に入れようかという選択に迫られたときに、石丸氏がもともと安芸高田市の市長経験者で、そこそこまともな人に見え、またメディアでも比較的紹介されたから彼に消去法で票が集まったに過ぎないと思っている。つまり彼でなくとも彼に似た属性の人がいればその人にある一定の票が流れたということではなかろうか。20代や30代の人たちに彼が人気だったというわけではあるまい。一方で年寄りは基本左翼好きだから蓮舫に票が集まり、また年寄りは基本的に人間を見る目がないので小池氏に投票し、結果的に、人間は基本的に人を見る目がなくメディアに左右されるので小池氏が勝利したということだろう。

思うに生物学的に言えば、人類が選挙ということを行うのは、類人猿がハーレムを形成する、つまり集団がリーダーを選出するという性質を持っていることからきているのだろう。ハーレムを作る動物はいくつもあるが、古代においてはこれは王政という形をとった。それが選挙という、やや形を変えた人気投票によって代替されたということなのだろう。人類が集団の中から指導者を選ぶ性質の生き物であるとして、それはそれで仕方ないとして、では選挙とはその最適解なのだろうか。そこにはもう少し考える余地があるはずだ。

共同幻想

共同幻想は吉本隆明が言い出した言葉だとウィキペディアには書いてあってへえそうなのかと思った。吉本隆明は国家や企業や組合や教団なども共同幻想と言っていて、それってつまり、人間社会はなんでもかんでも共同幻想と言っているだけではないか。

世の中は、選挙をやればやらないよりは良くなる、選挙も投票率が高ければ高いほどよくなると、みんな思っているようだが、これこそは共同幻想ではなかろうか。共同幻想という言葉が本来の使われ方と違うというのであれば集団幻想などと言い換えてもよい。

たしかに投票率が高いほど、民意をより正確に反映したものにはなるかもしれない。しかしそれによってよりよい指導者、為政者が選ばれるという根拠は何もない。そもそも選挙によって、とりわけ直接選挙によって選ばれた指導者が独裁者になったり暴君になった例はいくらでもあるし、陶片追放によってすぐれた指導者が失脚した例も多い。直接選挙は優れているとか、投票率が高いことは優れているとみんな思い込んでいるだけなのではないか。

武家よりも公家のほうが歌を詠むのがうまいというのもまた共同幻想にすぎない。ただたんに雰囲気でみんなそう思っているだけだ。小倉百人一首に採られた歌人は歌がうまいというのも同じ。

コロナ騒ぎのことを共同幻想という人もいるようだ。まあそうかもしれない。

リファイナンス

アメリカ人の借金借金、などでもすでに書いたのだが、借り換えのことを一般的にはリファイナンスと言い、聞こえはかっこいいが、かなりやばいもののようだ。

住宅ローンを都市銀行なんかから借りるときには審査が厳しくてなかなか借りられないのだろうが、デビットカードやクレジットカードの借金を住宅ローンにまとめるというリファイナンスを日本でもやってる業者がなくはないらしい。つまり住宅ローンを街金や消費者金融のところから借りているということだと思うが、それはそれでそれなりの金利を取られるのだろう。

好景気で、金融緩和で、利子が低く、かつ不動産価格が値上がりし続けていればこのリファイナンスというもので借金をすればするほど、借り換えをすればするほどに儲かるという異常事態がアメリカには15年ばかり前から現れていたらしい。

リファイナンス自体は、条件さえ整っていれば有効な手段だと思うが、状況が変化するとかなりやばいトラップ。サブプライムローンと同じ。

アメリカは今も金融緩和し続けている。これは政府がそうしようと思いさえすればできることなので、今後も続けるつもりかもしれないが、金利は上がったまま下がらないし、不動産価格は商業不動産から下がり始めている。

中国のバブルがはじけたのは明白になったし、アメリカ大統領選挙が終わったあたりに大きなリセッションがくる可能性はかなり高いと思う。なので私もできるだけ株は安くで買い、買うとしても必要なナンピン買いだけして、利益の出るうちに売れるものは売っておこうと思っている。売っといて、安くなったときに買いなおせばよい、と思っている。売ったあとに値上がりしてしまったなと思うこともあるわけだが。

借金

銀行口座を開設しようとしたり、クレジットカードを作ろうとするといろいろ個人情報を聞かれる。まあそれはいいんだけど、そのとき、今借金はありますか、ただし住宅ローンは除くっていう質問があって、ははあ、住宅ローンは普通の人でも借りる健全なローンだと一応世の中ではみなされているのだなということがわかる。

しかしアメリカではクレジットカードの支払いが滞った人の借金を住宅ローンに組み込んで、一見借金がなくなったみたいにするのが流行ってるらしい。これをやり始めたら、借金をいくらしても大丈夫みたいに錯覚するのじゃあるまいか。これでまた、サブプライムローンみたいに破綻したら、世の中にはもはや、健全でまともなローンなど何もない、ということになるだろう。アメリカはその行きつくところまで突っ走っているように見える。

円安のせいか今日は株が上がってる。

アメリカは金利をどんどん上げて、インフレもどんどん進んで、ドルがどんどんあがっている。金利を上げるということは、預金が増える要因にもなるが借りている人の借金がどんどん膨らむということだ。アメリカの銀行は破綻までの時間を先延ばしにしているようにしか見えない。

アメリカの預金者は保護されるかもしれないが、日本の投資機関は守られないから、そろそろ日本のいろんなところがアメリカから投資を引き上げるという話もある。アメリカにはまだ全然余力があるからどうせまたもとにもどるんだろうけど、大きな混乱が近い将来くるのは間違いあるまい。そうしたとき資産家は何年か辛抱すればよいのだろうが、貧乏人はますます増える。それでもなおアメリカにやってくる移民は止まらない。地獄だな。

東京銭湯共通入浴券

入浴券の期限があと少しで切れてしまう。期限はまだまだ先だなと思っていると案外使わずに過ぎてしまう。使わないのはもったいないが無理に使うのも面倒だ。それで、まだ行ったことがないところへ試しに行ってみようと思うのだが、歩いて行ける近場はもう全部行ってしまっているので、電車で数駅くらいのところへ行って、銭湯入って、適当に近くの安い居酒屋で飲んで、それでまた電車で帰ってこようと思っている。中央線より北側に広大な未開拓ゾーンが広がっているのでちまちまやっていく。

しかしこの共通券だけど、期限が切り替わるのが年に6月30日一度きりらしい。

7月に買っても6月に買っても期限は6月30日。ふだんしょっちゅう銭湯に行く人にとっては誤差のようなものかもしれないが。

たいていどこの銭湯もちょっとずつちょっとずつ使いにくいのだがそれは個人経営の銭湯なんだから仕方ないとあきらめてこちらから合わせていかねばなるまい。

人の悪口

サイトを再開して1年経過し、以前よりもかなりグーグルで検索されるようになった。というより、グーグルは1年未満のサイトを検索結果に極力出さないようにしているようだ。そういう日の浅いサイトを信用しないというのはある意味かなり効果のあるフィルタリングかもしれない。

そうして検索されたからといってブログ村のPVが増えるわけでもない。いずれにしても今は誤差の範囲ということだろう。検索されたりバズったりすることは悪いことではないと思うが、ただ単にそれで目立つことが目的化して、書きたいことではなく、目立つため、書きたくもないのにインプレッションを稼ぐための記事を書くようでは、何も書かないのと同じか、むしろもっと悪い、人生の無駄遣いに等しいことだと思っている。それを本腰入れて商売にするというのであれば、少なくとも生計のたしになっているのだから意味が無いとはいえないのだろうが。

エゴサするのが好きな人がいて、自分の悪口を言っている人はとりあえずブロックし、自分のことを良く言っている人の言葉だけ聞いていたいという人はいるのかもしれない。まったく絡みもしてこない相手をブロックする理由というのはそれしか考えられない。とにかく目障りなものは見ない、自分のファンの反応だけを見て承認欲求を満たす。そもそもエゴサしない人は赤の他人をブロックすることはあるまい。

私はどうだろうか。なにかバズっていろいろ私のことを世間で良く言ったり悪く言ったりしていて、悪口はみたくないからブロックするだろうか。そもそもエゴサしたりするだろうか。わからん。なってみないとわからないものなのかもしれない。しかしまあ、人の悪口というのはかなりメンタルにくるだろうか、できるだけ見ないようにするのが精神衛生に良いのだろうということはわからんではない。その場合私はエゴサした上でブロックするのではなく、そもそもエゴサしない、自分を褒めるひともけなす人も一様に見ないようにすると思う。

フォローされたりリツイートされたりしたというのなら話はまた別だが。思うに、やはりエゴサというものは怖いものなのである。だからエゴサそのものをしたくなかったり、エゴサしたときに目障りなアカウントをブロックしたりするのだろう。

田舎暮らしは嫌だ

多少不便でも良いから田舎でのんびり暮らしたい、とは誰しも思うことかもしれない。最初のうちは物珍しさで毎日楽しいかもしれないが長期滞在しているとだんだん嫌なところが見えてくる。

ものすごい田舎でなければ田舎が不便ということは最近はあまりないと思う。イオンモールなり、ホームセンターなりスーパーなり、ドラッグストアなど何かしらあって買い物に困るというケースは、少なくとも駅から徒歩圏ならばないと思う。

田舎は案外うるさい。畑や田んぼは例外なくうるさい。耕運機やらなにやら。田舎の家も生け垣などあると刈り込みの音がうるさい。農業がなにもかも機械化されて年寄りがやるようになったからうるさくてしかたない。工務店と同じだ。

あとやはり田舎には、住宅街にはうるさすぎていられないような工務店か工場のようなものが点在していてこれがまたうるさい。いちいち気に障る。

それから、ワゴン販売みたいなのが駐車場に止まってるとこれがまたバックで駐車するときにいちいちうるさい。

田舎に静かな一人暮らしなどというものを求めても結局人が住んでればなにかしらうるさいのである。駅や街道から離れ周りにたんぼも畑もない一軒家などが良いのかもしれないが、私は胸に機械を入れてから免許証をとりあげられてしまったし、そもそも車に乗りたくないし、そんな周りにひとけのない、どんな野生動物が出るかもしれないところは危険な気もする。それで結局静寂な環境を求めるのであれば、きちんと防音されたマンションなどに住むしかないのではないかと思う。

腹八分目、酒八分目

食事にせよ飲酒にせよ、適当なところで止めておくのが平穏無事に生きていくためには必要なんだなと思う。

やはり高いウィスキーでハイボールを作るのはもったいないと思うようになった。シーバスリーガルがホワイトホースくらい安ければロックも炭酸割りも全部シーバスリーガルで飲むのだが、そういうことは超富裕層の上級国民で、伊勢丹の外商通してしか買い物しないような人にだけ許されるのだろう。

玉子ほどじゃないが、ウィスキーも最近だんだん最近高くなってきた。ホワイトホースも1本1500円くらいまで上がったが最近はまた1000円近くまで下がってきたのは喜ばしい。ホワイトホースばかり飲むと飽きるのでいろいろほかのを飲んだりするんだがホワイトホースを超えるウィスキーはなかなかない。特に国産にはない。国産の高価なウィスキーをありがたがる風潮は私にはまったく理解できない。chivas regal とかジョニ黒とかジャックダニエルとか、あとは knob creek なんかを順繰りに飲めればそれでいいかな。

匿名と実名

私はブログやツイッターに匿名で書いているわけだが、その匿名で紙の本を出してもらったり、kdpで個人出版しているので、一応、ただのアノニマスな人間として活動しているわけではなくて、売れているかどうかはともかく、一個の作家としてすでに世の中に存在していると思う。そしてたぶん調べれば私の本名を調べるのはそんな難しくないし、わかったからいまさらどうということもない。多少困ることになるかもしれないし、職場に迷惑がかかるかもしれないが、その程度の発言をしている人は世の中にざらにいるし、問題があるとも思えない。一時期、ツイッターの匿名アカウントが実は某通信社の社員だったことが判明したりして騒ぎになったが、私はそういうタイプの人間ではないと思う。

さらに言えば、7年後定年したら、匿名と本名を区別せずやっていくつもりで着々と準備している。もう私も60才なので、匿名と実名を使い分けてどうこうなどということはせず、書きたいものを書きたいように書こうと思っているわけだ。

それで、ある人にツイッターアカウントをブロックされたのだが、別にこれが初めてのことではないのだけど、私はわりと小心者なので気にしている。いまのところ警告されたり削除依頼が来たわけではないし、まして、相手の記事に返信したりリツイートしたわけでもない。私が嫌いですよ、困ってます迷惑してます、という意思表示ではあり、また私の書いたものが(おそらくこのブログを含めて)相手に読まれているということだ。どういう頻度で詠みに来るのかは知らん。ブロックしてそのまま無視するのか。それともときどきチェックしにくるのか。まったくわからん。なんか怖い。

となると私もこれから何を書こうかということを意識せざるを得ない。

とりあえずこれ以上メンションするのはやめておこうと思う。

次に出す本は割と政治的要素が強いのだけど、今までもそういうものをKDPで出したことはあるが、紙で出て、しかも世間で話題になったらなんか言われるんじゃないかという心配は実はあるんだが、まあもう私も60だからそろそろ言いたいことを言わせてもらおうかなと腹をくくりつつあるところだ。

夫婦同姓

梅雨入り直前というところかなあ。

世の中では江戸時代の夫婦同姓と養子縁組をごっちゃにしている、あるいは、ごっちゃにしたがっている人が多いように思う。たとえば、婿取りをして、婿が養子縁組によって姓を変えて、夫婦同姓になる、ということはあったと思う。医者とか、芸能の家の場合には特に多かったようだ。本居宣長も明らかに、婿入りで京都の医者になるのを狙っていた。

婿取りとは要するに女系相続のことだから、漢民族や、ゲルマン法に基づく西ヨーロッパではなかったが、東ヨーロッパや古くギリシャ、ローマでも、或いは東ローマ帝国でも、女系相続というものはごく普通におこなわれていた。しかしふつうそれは夫婦同姓とは言わない。養子縁組だ。

嫁入りにしても、夫婦になると同時に妻が養子縁組して夫と同じ姓になることは、あったのかもしれない。或いはそこまで民間では厳密に姓というものが考えられていなかったか、そもそも姓というものを持たない人もいたかもしれない。

しかし武家や公家は違う。徳川氏に藤原氏が嫁入りしても、嫁は藤原氏のままだったはずだ。徳川氏に皇女が嫁入りするときだって、皇女は皇族のままで、徳川氏になるわけではない。天皇に藤原氏の娘が入内しても、皇族になるわけではなく、藤原氏のままだ。

あるいは、商家の屋号というものが実質的に姓の機能をもっていたから夫婦同姓だといいたがる人もいるようだ。

いろいろ民間の制度はあったかもしれないが、原則として日本は江戸時代まで夫婦別姓だった、というのが歴史的事実だろ。違うんなら違うという理屈が知りたい。