宣長「手枕」

宣長が源氏物語に欠損する巻を補うために書いたという擬古文の「手枕」を読んでみようかと思ったが、それなりに難しいので、ネットで検索してみると、京都歴史研究会というところに 宣長「手枕」現代語訳 というものがある。これは労作だ。他にもいろいろ面白そうな読み物があるのでそのうち読んでみよう。

追記: こちらが移転先であると思われる。

で、六条御息所の年齢についてなど読むと、御息所の年齢に矛盾があるので、その夫、つまり前坊(先の東宮、つまり皇太子)は、皇太子だったのだけど早死にしたので即位しなかったのではなく、何らかの理由で皇太子を廃されたことになるらしいのである。宣長の手枕では

どのような御心情を御持ちになられたのでしょうか、世間をどうにもならず空しいものと御考えになり、常々、何とかしてこのような苦痛で気詰まりな身の上でなく、生きている限りは、心穏やかでのんびりと、思い残す事無く、好きなようにして、日を明かし暮らしていく方法がないものだろうか、とばかり御考えになり時を過ごしておられたが、とうとう御考えのように、東宮を辞退申し上げなさり、六条京極辺りに居住してらっしゃる。

として、東宮みずからその地位を辞して(おそらく臣籍降下というのでなく、ただの親王となって)、のちの御息所の住居である、六条京極辺りに移り住んだ、としているのである。宣長自身の註釈に

このふみは、源氏の物語に、六条の御息所の御事の、はじめの見えざなるを、かのものがたりの詞つきをまねびて、ものせるなり

とある(鈴屋集七・鈴屋文集下)。思うに、宣長がこの文を執筆したいと思った理由は、単に源氏物語風の擬古文を書いてみたかったとか、源氏物語に欠落した源氏と御息所のなれそめについての巻を補完したかったということもあるだろうが、源氏物語を研究していてわいてきた疑問点や不審点、特に御息所の年齢問題に、きちんとした解決を与えたかったのだろう。

近世和歌撰集集成

上野洋三編「近世和歌撰集集成」明治書院全三巻。新明題集、新後明題集、新題林集、部類現葉集などの堂上の類題集など。他には若むらさき、鳥の跡、麓のちりなどの撰集。これらは地下の巻に入っているのだが、通常は、堂上に分類されないだろうか。私家集はない。国歌大観にもれた珍しい近世の撰集というだけあって、かなりマイナー感がある。しかもこれまた電話帳。なぜか貸し出し扱いになっていたが、家に持ち帰ってももてあますだけなので、とりあえずそのまま借りずに返却した。借りたくなったらまた行けば良い。「近世和歌研究」加藤中道館。論文集みたいなもの。それなりに面白い。

霊元天皇

車をも止めて見るべくかげしげる楓の林いろぞ涼しき

契沖

我こそは花にも実にも名をなさでたてる深山木朽ちぬともよし

数ならぬ身に生まれても思ふことなど人なみにある世なるらむ

高畠式部。
江戸後期の人だが、90才以上生きて明治14年に死んでいる。
景樹に学ぶ。少し面白い。

春雨に濡るるもよしや吉野山花のしづくのかかる下道

さよる夜の嵐のすゑにきこゆなり深山にさけぶむささびの声

なかなかに人とあらずは荒熊の手中をなめて冬ごもりせむ

最後のはやや面白いが、

なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり

なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ

などの本歌がある。「桑子(くはこ)」とは蚕のこと。「なかなかに人とあらずは」は「なまじ人間であるよりは」の意味であるから、「なまじ人間であるよりは荒熊になって、てのひらでもなめて冬ごもりしようか」の意味か。

なかなかに人とあらずはこころなき馬か鹿にもならましものを

これは狂歌(笑)。

なかなかに人とあらずは花の咲く里にのみ住む鳥にならまし

子規と景樹

改めて歌よみに与ふる書を読んでみると、子規が景樹を褒めていて驚いた。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。

「古今貫之崇拝にて見識の低き」とはおかしな言い方だ。だいたいだじゃれがすきなのは貫之だけじゃない。古今がすきなのも貫之だけじゃない。当時の歌人はみなだじゃれが好きだったし、人麿だって好きだった。業平だろうが小町だろうが和泉式部だろうが、竹取物語だろうがみんなそうだ。

景樹の歌に俗なものが多いのはそのとおり。

しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。

それはそうだ。時代が下れば必ずしも悪くなるばかりではない。良くなることだってあり得る。そもそも、景樹は「貫之を崇拝」していたのではあるまい。古今を手本にして学べと言っているだけだろう。そうするとだいたい後の世の歌も詠める。宣長が言っていることとほぼ同じ意味だと思う。

あをによしならやましろのいにしへをまなばでなどか歌は詠むべき

これは、今思いついた歌。

景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太(りょうた)に比するが適当と思われ候。
蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣き有之候。ここの処よくよく闊眼を開いて御判別あるべく候。

蓼太とは大島蓼太という人のことらしいが、よくわからない。景樹のどの歌が良くどの歌が悪いということを具体的に例を挙げてもらわないと、子規の真意を掴みかねる。景樹は確かに狂歌まがいの歌や俳諧歌をたくさん詠んでいる。そういうのは駄目だがまじめに詠んだのは良いと言いたいのか。わかるようにきちんと指摘してくれないと卑怯だ。だいたい景樹というのは幕末近くまで生きていたのだから、
江戸の終わりまで歌詠みの名人というのはいたのであり、そのこと自体、和歌が江戸末期まで生きていた証拠であり、その弟子が無様だからといって、和歌全体が駄目な理由にはなるまい。

真淵は雄々しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。

実際、真淵の歌はあまり雄々しいものはなく、どちらかと言えば古今調に見える。良寛の方がはっきりと万葉調がわかる。それはやはり時代が下って万葉調に馴れたからだろう。

もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり

契沖の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。

漫吟集にある歌だが、そもそもどうでも良い歌だ。なぜ子規がわざわざこの歌を攻撃しなくてはならないのか。この歌が駄目だとしてなぜ和歌が駄目だということになるのか。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。

私もこの歌は駄作だと思う。だからどうだというのか。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、
これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめになされては如何や。

言いたいことはわかるが、何を批判したいのだろうか。一言で言えることを三十一文字に引き延ばすことがいけないといってしまうと、秀歌の多くがそれにひっかかる。「難波津に咲くやこの花」などからしてそうだ。「春になって花が咲いた」というだけなのだから。やはり、何がいいたいのかわからない。俳句ならば文字数を惜しむということはあるだろうが、いや、俳句だからこそそういう発想が出てくるのであり、和歌の場合、そこに囚われずにもっとさまざまな技巧のこらし方があり得る。たとえばわざと文字数を浪費するとか、わざと無駄な言い回しを使うとか。長ければ長いだけ情報を詰め込むこともできればわざと冗長にすることもできる。子規が実朝の歌と言われる歌

もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

を、助詞や助動詞が少なく名詞が多く、動詞も現在形で短く、

かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。

などと言ってほめているが、これこそまさに俳句的発想であって、和歌というものは名詞が多ければ良いというものではない。子規はそのへんがまるで理解できてないのではないか。

草庵集玉箒

宣長による頓阿の歌の解説。

山深く わくればいとど 風さえて いづくも花の 遅き春かな

歌の意は、まず奥山ほど寒さの強き故に、花の咲くこといよいよ遅きが実の理なり。しかるを作者の心は、その道理を知らぬものになりて、里にこそまだ咲かずとも、山の奥には早く咲きそめたる花もあらむかと思ひて、山深くたづねつつ、分け入れば入るほど余寒強く、いよいよ風さえて、まだ花の咲くべきけしきも見えぬ故に、さては里のみならず、山の奥までいづくもいづくも花の遅き春とかなと思へるなり。「春かな」ととどまりたるところ、花を待ちかねたる心深し。

丁寧な解釈。

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

一首の心は、かつかづただ一木まず咲きそむれば、いまだなべての桜の梢は花にならざるさきに、はや世の人の心がまず花になりゆくといふ趣旨なり。「心ぞ」の「ぞ」をよく見るべし。「心の花になる」とは、花のことのみを思ふなり。

宣長の桜の歌によく似ている。

おのづから 散るはいづれの こずゑとも 知られぬ宿の 花ざかりかな

まだどのこずえも自然と散るようすも見えない、満開の宿の花盛り、という意味。

つれもなく けふまで人の とはぬかな 年にまれなる 花のさかりを

北条義時と大江広元

wikipedia:大江広元

鎌倉に大江広元の墓と伝えられるものがあるが、これは江戸時代に長州藩によって作られたものであり、広元の墓とする根拠はない。

へえ。そうなんだ。まただまされた。長州は毛利氏で毛利氏の祖は大江広元だから、江戸時代になってその祖先の地に墓を作ったということか。

読史余論。

按ずるに本朝古今第一等の小人、義時にしくはなし。三帝二王子(後鳥羽上皇順徳上皇土御門上皇雅成親王頼仁親王)を流し、一帝(仲恭天皇)を廃しまゐらせ、頼家ならびにその子二人(禅師君、公暁)、又頼朝の子一人(意法坊生観むすめの腹に出来しを、殺せしといふ事、承久記に見ゆ)、頼朝の弟一人(全成)、姪一人(河野冠者)。それが中、公暁をして実朝を殺させしありさま、その姦計おそるべし。景時義盛を殺せし事、前に論じき。かれいかでかその死を得べき。東鏡に記せし所信ずべからず。順次往生の類、皆これ文飾のことばたる事明らかなり。保暦の記さもあるべくや。されど義時が奸計を遂し事も、外戚の勢に倚りし故なり。譬えば王莽元后の力をかりて、つひに漢鼎を移せしが如く、本朝にしては蘇我馬子元舅の親によりて、用明の皇弟穴穂部皇子及び守屋の大連を殺し、そのゝち終に崇峻を殺し参らせしよりこのかた、かゝる類もなく、義時が罪悪はなほ馬子に軼たり。

禅師君は禅暁か。

一幡を殺したのは時政で、義時ではないということか。

「意法坊生観」とは「一品房昌寛」のことらしい。読みはだいたい同じ。昌寛の娘は頼家の側室となって、栄実・禅暁を生んだ。頼朝ではなくて頼家の間違い。

河野冠者は阿野時元で全成の四男、つまり頼朝の甥。

按ずるに広元、累世王家の臣として頼朝をたすけ、六十州をして其掌握に帰せしめ、義時を助けて承久の謀主たり。この人当時の望みありしかば、時政が一幡を殺せし時も、かれを仮りてみづからをなし、およそ義時が奸詐をほしいままにする、常にかれをかりてわたくしを営みき。さればこの人、ひとり、朝家に背きしのみにあらず、頼朝にもそむきたり。その柔侫多智、これもまた義時が亜たるべし。
玉海に、頼朝広元に委ぬるに腹心を以てす。恐らくは獅子身中の虫也とのたまひし事、先見の明ありといふべし。

累世王家の臣とはつまり大江氏が藤原氏などと並んで古くからの貴族であるという意味。

「亜」とは次ぐもの、という意味のようだ。

文献メモ

バートン・L・マック著、秦剛平訳「失われた福音書 – Q資料と新しいイエス像」青土社。[加藤隆著「一神教の誕生」講談社現代新書。 これによれば、ダビデ、ソロモンの時代には、ヤーヴェはユダヤ教の主神ではあるが、ユダヤ教は一神教ではなく、イスラエル王国の滅亡やバビロン捕囚などを経て、一神教に収束していった、つまり、徐々に多神教から一神教が生まれたように書かれている。

いや、もちろんそういう要素はあったかもしれんが、私としては、フロイトの説のように、一神教はもともとはエジプトのアトン信仰に由来するものであり、アトン信仰がユダヤ教と融合することによってユダヤ教も最終的に一神教になったのだと思う。で、フロイトも指摘しているように、アトン信仰も古代エジプトで忽然としてアメンホテプ4世の時代に創作されたというよりは、シリアなどでもっと古くから存在していたのではないか。

青野春秋の謎

改めて、俺はまだ本気出してないだけを3巻一気読みしてみた。電車の中ヒマだったので何度も何度も読み返した。そしてやっぱしゃれにならんマンガだなとは思いつつ、青野春秋という作家についていろんな疑問がわいてきた。マンガ自体は非常に良く出来ているので、われわれはついこれは作者の自伝的なマンガなんじゃないかと錯覚してしまうが、それは巧妙なるやらせのたぐいであって、作者は40のおっさんではなくて20代の女性かもしれない、とさえ思える。イキマンという作家発掘養成のための新人賞、いや、イッキという雑誌そのものをもり立てるための壮大なやらせなのかもしれない、ヘタウマ風の画風さえやらせであり、新人賞当時の画力を編集者らに無理矢理保持させられているだけなんじゃないかとさえ思える。いや、それならそれでもかまわんのだが、だまされたとわかったときのショックをできるだけ和らげたいと思うのだった。

ははあ。なるほど。ネットに散らばっている情報を集めるとおぼろげに見えてくる。イキマン「走馬灯」受賞時2005年11月に青野27才。素直に逆算して1978年生まれ、現在30才くらい。性別不明。2001年ヤングマガジンにて「スラップ スティック」が第45回ちばてつや賞優秀新人賞受賞、とあるがこのとき推定23才。10代から漫画家のアシスタントやってると。まあ、作者はごく普通の漫画家だわな。で、女性であればおそらく作者は鈴子に近い立場。もしくは読み切り「生きる」に出てくる女性。男性ならマクドナルドのバイトの田中とかか。

「走馬灯」掲載が06年2月。「いきる」掲載が07年1月。読み切り「俺はまだ本気出してないだけ」掲載が07年3月。連載開始が07年5月。

第3巻の発行が三ヶ月ほど遅れたのは作者の体調不良によるらしい。

同じイキマン出身の福満しげゆきは作家本人がそうとう露出しているのにくらべて青野はやはり謎に包まれている。

モーセと一神教

ジークムント・フロイト著、渡辺哲夫訳「モーセと一神教」筑摩書房、 勝海舟著, 江藤淳, 松浦玲編「氷川清話」講談社、など読む。

「モーセと一神教」はずっと読みたいと思っていたのをたまたま電車待ちの時間に本屋で見つけて買ったもの。フロイトは80才過ぎてからモーセ論に凝り始めたが、その主張するところは、「モーセはエジプト人」「主(アドナイ)はエジプトのアトン神」「出エジプトはアメンホテプ4世(イクナートン)以後の無政府状態のときにおこった(従ってエジプトの軍勢に追われたり、紅海が割れたというのはすべて作り話)」「ユダヤ教はアトン神(エジプト起源の唯一神)とヤハウェ神(火山の神)の融合」「モーセはユダヤ人に殺された」「割礼はエジプトの古い風習」などなど。アトンは、エジプトの歴史の中で現れた唯一神で、イクナートンの時代に完成され、一旦は破綻した。もともとは無色透明無形な抽象神なのだが、一方でヤハウェは怒りの神、嫉妬の神、えこひいきの神。その本来全く異なる相容れない二つの神が融合したことによって、精神性が非常に高められた一神教が生まれたのだという。フロイトの学説はすべてうさんくさいのだが、モーセ論だけはほんとうじゃないかと思う。多神教でも、すべての神様すべての神話を統合しようとして抽象的な神様を付け足すことはあって、日本神話だと天の御中主の神がそうで、具体的な人格もなければ自然現象や動物や植物などとも関連がない、ただ名前だけがある。しかし名前だけの存在だから、生き生きと動き出すことはまずないし、そもそも後世に人工的に作ったものだから、個別の神話から遊離している。抽象神なのに具体的で強烈な個性というか自我を持った神がどうやってできたのか、というのは実はまだよく解明されてないようだ。

清朝末期の改革

1894年の日清戦争から1911年の辛亥革命までの清朝末期の改革は、よく調べるとけっこう面白いのかもしれん。キーワードは、戊戌維新、百日維新、康有為、梁啓超、光諸帝、変法維新、章炳麟、etc。西太后は当時の中国社会そのもので、「もし西太后がいなければ」という仮定は無意味だと思う。西太后が居なくても他の皇族が担ぎ出されただけだろう。1898年、光諸帝が康有為や梁啓超らにうまく立憲君主制を作らせていれば、1900年の義和団事件も1911年の辛亥革命も未然に防げたかもしれない。そうするとそもそも日露戦争も起きなかったかもしれないし、そうなると韓国は一時的に日清の保護下に置かれたかもしれないが、韓国併合はなかったかもしれないし、そのうち日清韓同盟が力を付けていけば、遼東半島もロシアから取り戻せたかも。というか日本が遼東半島を割譲して三国干渉を招いたのがまずかったのかなぁ。とかいまさらどうにもならんことではあるが。

呉智英「犬儒派だもの」比較的新しい本だが、世田谷中央図書館にあった。すばらしい。
冒頭「声に出して笑いたい誤文・悪文」で長尾真の岩波新書「「わかる」とは何か」がやり玉に挙げられている。きわめて普通の工学書で、それ以上でも以下でもない。が、彼はどういうわけか京大総長になった。たぶん理系人間が京大総長になったのが気に入らなかったのだろう。岩波新書か何かに科学論めいたことを書かされて、わざわざ批判の矢面に立って、呉智英に馬鹿にされるとはあわれなことだ。どうも工学者は偉くなると哲学をほいほい語り出すのだが、専門となんの関係もなく実にナイーブだ。岩波新書なんてものに書くから読者も期待して読む。岩波の編集者も偉い人だからとほいほい書かせる。書けば中身に関わらず買うやつは買う。
そして皆が不幸になる。

Linus の Just For Fun(和訳)を読むと、世の中にはやはり文系と理系の厳然とした違いがあるなと思う。フィンランド人でも日本人でも違いはない。背が高い低いとか太ってるとかやせているというのは外見だから、見てすぐにわかる。しかし、文系理系というのは脳の中身のことなので、見ただけではわからん。そんな区別はないものだと言いたがる人もいる。しかし状況証拠から見ればやはり明らかにあるように思われる。

理系文系の違いは、理系は数学や物理に美しさを感じるということ。数学に心地よさを感じる人たちが集まった集団が理系。まあ、そういって間違いない。芸術学部の連中は、なるほど彼らは確かに美しさということに敏感であるし、関心が高いのであるが、数や数式が美しいとは決して考えない。いや、数を美しいと感じないからこそ、それ以外のものを美しいと感じる能力が発達しているのだと思う。数を美しいと感じる人は逆にそれだけで満足できてしまい、それ以外のものをわざわざ追求しないのだろう。

Linus が成功したのはタイミングが良かったからだろう。Linus と同程度の才能と意欲を持つ人間はいくらでもいたが、成功するには何か新しい流れが生まれるその現場に居合わせなくてはならない。Linus のような人材はつまり理系であり、オタクである。そういう人間を芸術学部の中で育てるのは不可能だ。そういう人材が欲しければ募集を工夫するしかない。カリキュラムでどうにかなるレベルを超えている。

康有為

たまたま康有為というマイナーな人の伝記があったので思わず借りてみる。

読んでみたが大して面白くない。改革してみたが、地方の役人や官僚がまったく言うこと聞かなくて、みんな西太后の言うことばかり聞くので、日清戦争の敗戦で始まった変法自強運動も三ヶ月で頓挫してしまった、というのがあらすじ。

なんていうか西太后は国を滅ぼした悪女のように言われるが、西太后がもし康有為のような改革をやろうとしても、同じように失敗したんじゃないか。官僚と役人と民衆が言うこと聞かなきゃ改革なんてやっても無駄だ。無駄だとわかってたから彼らの好きにさせただけなのかもしれん。光緒帝も別に無力でも無能でもなく。

西太后というのは東条英機みたいなもんかな。彼も別に無能でも悪人でもなかっただろう。

大清帝国はだからだめなんだと言ってみるのは簡単だが、現在の日本も似たようなもんだ。改革しようとしても官僚や民衆が言うこときかない。その点小泉君はよくやっとる。
彼の改革は遅いと民衆はいうようだが、私からみればずいぶん速い。ていうか改革はゆっくり遅いくらいでちょうどいい。役に立てばいいんで、即効性なんて必要ない。少子化というか、少人口化は私はむしろもっと進行した方がよいと思う。日本人は日本に五千万人もすんでりゃ十分だろ。要らなくなった田舎は自然に還せばいい。生活はずっと快適になるだろう。でも年金は困る。だから税金を注入すればいい。財源は間接税でいいじゃんか。福祉は別に考えればよく、消費税と絡ませる必要はなんもなし。結果的に北欧のような高福祉の国になるんだろうけど、それで別に何の問題もなし。

なんでそういう簡単なことがすっとできないのかなぁ。康有為も王安石くらい暴れてくれりゃ、或いは金玉均みたいに暗殺されたりすれば、もっと伝記も面白いのかもしれんが、
地味なんだだよねぇ。まあ別に歴史に残らんでも一個人としては、それなりに普通に暮らせればいいんで、その点では康有為は王安石や金玉均よりもお利口さんだったのかもしれんし。

百歳以上生きた宋美齢は日本人は口べただと言ったらしい。また、日本人は短気ですぐ切れる人種だと思われている。つまり日本人というのは無口で短気なわけで、中国人は相対的に饒舌でねばり強いというわけだ。まあ中国人から見れば周囲の蛮族はみんなそんなもんだと思うが。無口で短気で癇癪持ちだから明治維新では一時的にうまく行ったように見えて、その後ひどく失敗した。失敗したんで懲りたかというとそうではなくて、戦後日本なんて戦争中と大して精神構造は変わってない。プロジェクトXで黒四ダムがどうしたとか言ってるようだが、多くの人死にを出すほどの緊急性があったのか。技術的な成熟を待ってやれば一人も死なずに工事できたんじゃないのか。巨人の星のようなスポ根モノが大嫌いだ。そういう、気分や勢いで戦争されても困るし、そのままの勢いで戦後復興とかされても困るんだよね。