アジアとエジプト

ブログのリンクをツイッターにはろうかどうか悩んでいる。宣伝にはなると思うが、このブログはおもいついたことをそのまま書きためておくところで、永遠に未完成の書きかけなのだ。後から書き直すかもしれない。

そんなことを言えばKDPで出版したものも後でわりと書き直すほうなのだが、どうもブログを宣伝するのは気が引ける。

アドンとエデンなどというものを昔書いていてすっかり忘れていた。なぜ今更思い出したかといえば、JetPackというwordpressの統計プラグインのおかげである。

アラビア語ではエデンをアドンという。ヘブライ語で主をアドナイという。アドナイはアドンの複数形。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はアメンホテプ四世による、エジプトのアトン信仰にさかのぼることができる。フェニキア人の神にアドニスがいる。これらはみな同じであると仮定するとどういうことになるか。

エジプトにとって東とはほぼ間違いなくアジア(狭義にはメソポタミア)のことである。
つまり、エジプトにおける一神教とはメソポタミアから輸入された舶来の宗教であったといえる。

思うにエジプト新王国はアジアの征服王朝ヒクソスから独立して生まれたものだ。エジプト古来の文化や宗教が復活し、アジアとエジプトという対立概念が生まれた。外圧によってエジプトがエジプトを自覚したと言ってもよいかもしれぬ。アトン信仰はヒクソスの時代にすでにエジプトにもたらされていたかもしれぬ。いきなりエジプトに来たのではないかもしれぬ。

つまり、エデンとかアトンというのは、もともとは、エジプトの神に対する、メソポタミアの神、のことを言っていたのではなかろうか。エデンというのは、メソポタミアでは単に平原を表す普通名詞である。エジプト人はメソポタミアのことをエデンと呼んでいたかもしれない。エデンの神のことを、だんだん略して単にエデンとかアドンと呼んだかもしれない。

エジプト新王国はしだいにアジアのミタンニ王国と同盟するようになった。さかんに王族どうしで婚姻するようになった。これが王家と神官たちの宗教的対立を産んだだろう。エジプト国粋主義の神官たちと、アジア由来の神を信仰する王族。

ミタンニ王国は実はヒクソスの末裔であるかもしれない。エジプトはいったんヒクソスの支配を脱したのではなくて、ヒクソスによる支配はある程度残存していたのではないか。
第15王朝から第18王朝まで、王朝の交代という不連続な変化が起きたのではなく、エジプト固有勢力とアジア勢力の連続的な均衡が続いていたのではなかろうか。少なくとも当時、よりエジプト的な部族や人民、よりアジア的な部族や人民が、エジプトに混じり合って住んでいた。アジア的な部族とはつまり「エジプトへ下ったイスラエルの子ら」である。

イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。

エジプト新王国はまさにそのような状況だっただろう。

アジアとエジプトの対立が極端な、最終的な形で現れたのがアメンホテプ四世による宗教改革であった。エジプト古来の神と、アジア由来の神の対立によって先鋭化したものが一神教であったはずだ。この時期、きわめてリアルな彫像が作られたのも、アジアの影響だったはずだ。いきなりエジプト人の中からああいうものが出てきたと考えるほうが不自然で、どこかから輸入されたアートだと考えるべき。リアルと言えばギリシャ彫刻だが、その由来も案外同じかもしれぬ。このエジプト第18王朝はエジプト保守勢力によって途絶えた。そのとき王族がエジプトを脱出したのが出エジプト記の記述に相当する。おそらく、旧約聖書に記されている多くの古代の事績はまずアジアからエジプトにもたらされ、エジプトから迫害されて、ユダヤの地に残存したのだろう。

フロイトも指摘しているように、割礼はアフリカで広く見られる風習であって、アジア的なものではない。アトン信仰がエジプトの宗教となった結果、土着の割礼という風習を何かのきっかけで採り入れたと考えるべきだろう。

日本に学者はいなかった

丸谷才一「文学のレッスン」のp152に「日本に学者はいなかった」という章がある。非常に困惑する章題なのだが、本文を読んでみると、「近代日本文学では学問が軽蔑されていた」、とか、「小林秀雄は明治憲法で中村光夫は現行憲法だ」などと書いている。

小林秀雄は気持ちの良い歯切れの良い文体だがしかし何を言っているのかさっぱりわからない。

中村光夫の文章にはそういう爽快さがないけれど内容を伝達する能力は高い。

で、世の中の人は小林秀雄みたいな人を優れた批評家だと思い込んでしまったので、批評は訳がわからなくてよい、みたいな話になっている。訳がわかる評論とは論文であって評論ではない、そういうものは学者が書けば済む話だ、というわけだ。

いやまあ言いたいことはわかる。小林秀雄は朦朧体みたいなもので、至る所かすんでいる。でもときどきすごく論理的でほかのどの論文よりも明晰で説得力があるところがある。そういう意味ではフロイトに似ている。でも論文じゃないんだな。そこが天才的なところだわな、他人にはまねできない、学者にはそういう仕事はできない、という意味で。小室直樹もそれに近いかもしれんね。小室直樹は(一応)学者だけどね。

「日本に学者がいなかった」なんてどこにも書いてない。困った表題だ。

これでも国家と呼べるのか

小室直樹は預言者である。彼の預言で最も有名なのは「ソビエト帝国の崩壊」だが、他にもいろんな重大な預言を遺している。

「これでも国家と呼べるのか」は平成八年、つまり、今から18年前、1996年に出た本だが、恐るべき預言をしている。

日本人はまだ「土下座外交」の本当の恐ろしさを理解していない。国際法上、みずから謝罪するとは責任を取ることである。責任を取るとは補償に応ずるということである。このとき、挙証責任はこっちに押し付けられてしまうのだから、相手の言いなり以外にどうしようもない。挙証責任とは何か。分かりやすい例を挙げておこうか。

あなたがある日突然、見ず知らずの他人から「借金を返せ」と訴えられたとしよう。挙証責任がこちらにあるということは、裁判でその見ず知らずの他人から金銭を借りた事実が存在しないことを、あなたが挙証・立証しなければならないということである。もしあなたが大金持ちで、次から次へと見ず知らずの他人から裁判を起こされたらどうしますか。

国際法上、講和条約またはそれに該当する条約(例、日中共同声明、日韓基本条約など)を結べば、それ以前のことは一切なかったことになる。もはや賠償の義務はない。それなのに、日本の方から謝罪したので、一切が蒸し返されてしまった。佐藤内閣の日韓基本条約や田中角栄が周恩来に賠償を放棄させた日中共同声明など、せっかくの努力がみんな無駄になった。

諸外国もその国民も、あることないこと、いやあるはずのないことを言い立てて日本に補償を要求してくるに決まっている。戦争責任に時効はないとばかりに。日本は挙証責任をひっかぶってしまっているんだから逃げられない。「ヒロシマ、ナガサキ」に対して “I’m not sorry” と言ったアメリカとはわけが違うのだ。

今のネトウヨがツイートしたりブログに書いていることはすべて小室直樹が30年前から言っていることの焼き直しに過ぎない。田母神俊雄などは現場の将官だったから少しは新しいことを言っているが、ほとんど同じ。細川政権や村山政権は比較的最近なので、小室直樹が書いたことの中ではごく新しいが、それでもインターネットに民間プロバイダが現れるよりも前の論説であるからネトウヨよりずっと古い。今は石原閣下以下いろんな人がそういうことを公の場で言うようになり、飲み屋の親父も昔から知ってましたとばかりに韓国・中国批判をするが、正直なところ「おっさん、ほんとにわかってんの」と言いたい。
テレビでわいわい言ってることを反復するのは飲み屋の親父だってできる。実際飲み屋の親父なわけだが。

小室直樹は誰よりも早く、リアルタイムに指摘していた。二番目ですらなかった。誰よりも早く、一番にだ。そして誰も当時小室直樹を理解する人はいなかった。小室直樹が如何に偉大だったか!私も小室直樹のようになりたい。

詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。

特務内親王遼子2

CGをすべて clip studio と blender に移行して、 autodesk sdk 由来のプラグインとかも使わずに、
まあ完全商用利用可能な態勢が整ったんで、 せっせと続編書いてCGも描いて、 kindle で出すことにした。

同人出版のラノベに見た目は非常に近いが、 内容は全然ラノベではない。 「青春ラブコメ・ハーレムもの」に分類することも可能かもしれないが、 たぶん違うと思う。 どちらかと言えば近代アジアの軍事・政治ものというか。 『ジャッカルの日』とかそんな感じ?

遼子のモデルは川島芳子なんですけどね、 バレバレだけど。 安彦良和の『虹色のトロツキー』の影響を受けてないとも言いがたい。 タプイェンなんて麗花の丸ぱくりだと言われればそうかもしれん(麗花は李香蘭こと山口淑子がモデルであるという)。まあそこはオマージュってことで。いずれにせよ『虹色のトロツキー』なんてマイナーな漫画、一般人が読んでおもしろいともおもえんよなあ。

世の中に受け入れてもらえるのかどうかしらん。ていうか、変に狙い過ぎ、はりきり過ぎてて外してなきゃいいなと思う。

まだ続きがあるんで、実はストーリーはもうラストまでだいたい考えてある。勘の良い人(近代中国史に詳しい人)ならもしかすると部分的には予測つくかも。完全なフィクションですがね(一応のお断り)。『虹色のトロツキー』のオチとはだいぶ違うと思う。まあ、これまで書いてきた小説の同工異曲なんで、類推は可能なんだが、そこまで読んでくれている読者がいるとも思えん。

安彦良和はおもしろいよね。『王道の狗』『三河物語』『クルドの星』あたり。『麗島夢譚』は連載中だが、微妙。安彦良和はおもしろいのとおもしろくないのがあるから困る。日本神話ものはたいていおもしろくない。近代史がわりとよく、古代史や神話ほどつまらない傾向がある。『アリオン』も話としてはつまらない。『アレクサンドロス』は読んでみたいがつまらなかったらどうしようって感じ。外れなにおいがする。

新井白石

新井白石は面白い人だとは思うんだけどね。

ヨワン・シローテも面白い人だから、新井白石と一緒に吉原にお忍びで遊びに行った、そこでやはりお忍びで来てた将軍家宣とばったりでくわした、なんて話を書きたいなと思ったんだが、キリスト教徒の世界では彼は殉教者か聖人のように扱われているらしいんだな。だからどうにもいじりにくい。ああいう世界とへんに関わりもって文句言われるのはやだ。

新井白石もいろんな人がもう書いてしまってるから、普通に書いてもうまみはないのよね。

後は、まったく架空の殉教者と架空の為政者とまったく架空の国をでっちあげてそこでファンタジーものにするとか。ファンタジーもそういう目的であれば書いてみたいよね。だが、新井白石とヨワンの話はできれば実名で書きたいよなあ。ファンタジー仕立てにしておもしろみが却って益す場合と、全然そこなわれてしまう場合とあると思うんだ。

トーテムとタブー

フロイトの『トーテムとタブー』を読み始める。

ここでタブーと宗教は区別されている。宗教とは神を崇拝することであって、タブーとは神よりも古く、より原始的で、理由付けのない禁忌を言うらしい。フロイトの時代には、世界中でさまざまな先住民や未開民族が発見され、分類された。それらの民族の多くには、宗教と言えるような組織的なものはほとんど見られず、タブーの方がより強く社会を制約している、とフロイトは観察している。

フロイトが言いたいことはつまりこういうことだろう。近親姦の禁止や族外婚の風習というのは、ほとんどすべての、まったく無関係な社会にも見られる。それは、男性のボスによる一族の女性支配に由来する。トーテムとは部族、血縁のことで、東アジア的に言えば、姓とか本貫のこと。姓は原初的には女系だった。なぜ古代、女系で姓が継承されるかというと、古代は女権が強く、女性が財産権を持っていたからだ、とはフロイトは考えない。むしろ逆。男のボスが横暴であって、妻や娘たちを独占するために、妻や兄弟姉妹間で姦通することを禁じるために、妻とその子孫たちはすべて同じトーテムに属することとし、トーテム内の姦通を禁じたのである。この理屈で言えば、一族の中で同じトーテムに属さない、つまり自由に姦通できるのは夫一人となる。男子が成長すると、自分のトーテムの外、つまり家族の外の女と結婚しなくてはならない。これが族外婚。Exogamy というものだ。

確かに、まったく未開の、何の言語もなく、決まりもなにもない社会にも、この理屈で言えば、トーテムは発生しうる。トーテムの発生には理屈がない。ただ単に横暴な男子と無力な女子供がいるだけだ。それが数世代か数十世代繰り返されるかは知らないが、そのうち、誰もその由来は知らないが、トーテムという社会制度だけが成立するというわけだ。

恐ろしくも非情、しかし説得力のある理論だ。余りこれまで見聞きしたことがないのだが。Wikipedia などには、

遺伝子上の欠陥を補う事で、子の遺伝的な多様性を増加させ、子の繁栄の可能性を高める。

とあって、確かに、古代人がその遺伝的な問題を経験的に知っていて、それゆえに族外婚が自然発生したというのが、通説だろう。しかし、近親婚による優生学的な弊害というのは、かなり緩慢なものであって、たとえば貴族や王族などが、何世代にもわたって同族と婚姻関係を結んだ場合にしか起こりえないのではないか。人口の圧倒的多数を占める庶民には、あまり関係ないはず。庶民、特に未開民族においては、早婚、雑婚、多夫多妻が当たり前であろうから、数世代もすれば遺伝子の問題などあっという間に解消してしまい、
問題にならないように思う。

このフロイトが発見した理論が今日ではほとんど忘れさられ、無視されているのは驚くべきことだ。

フロイトの集大成

フロイトというのは、いわゆる一種の奇人・変人のたぐいであると思う。ディオゲネスやニーチェを哲学者というのと同じ意味でフロイトを哲学者というのは当たってるかもしれない(どんな人間を哲学者というべきかを私は知らない)。
しかし、マックス・ウェーバーのような意味でフロイトを学者と言うのはどうかと思う。
しかし、アトン信仰と、ヤハウェ信仰、そしてモーセとの関係を発見したことを見るに、彼が単なる妄想家ではなく、優れた直感力の持ち主だったと、評価できる。それで『モーセと一神教』という本だが、モーセともイクナートンとも関係ないことが、大量に、ごちゃごちゃと書いてあって、正直うぜーとか思っていたのだが、改めて読み直すと、それはそれなりに面白い。特にこれが、1934年以降1939年まで、ヒトラー政権が誕生して、ユダヤ人であるフロイトがイギリスに亡命した、最晩年に書かれているということを勘案して読めば、それなりに楽しめる。フロイトはオーストリアの人だが、1938年3月にヒトラーがオーストリアを併合している。『モーセと一神教』の前半部分はそれ以前に書かれているが、途中から、明らかに、文章が混乱し緊迫しているのがわかる。

彼は、なぜユダヤ民族が迫害されるかということを、彼なりに分析している。

彼は、人類は先史時代からずっと、何千年も何万年も、父親殺しを続けてきたと主張する。アッカド王国のサルゴン王の伝説に類似する、さまざまな神話の例をあげて。父親と子供は殺しあう、強い子供が父親を倒して自らハーレムの主となる。近親姦忌避と部族間婚は、遺伝的有害性に基づくのではなく、父子間の闘争に由来するとさえ言う。そして、モーセやイエス、その他の預言者はユダヤ人によって殺されたが、それは人類の父親殺しの習性を受け継いだものである。つまりメシアというのは自分の民族に殺される。そしてユダヤ人もまた人類に迫害される。そういう理論になっていて、もはやそこでは、モーセとアトン教の関連などという主題は、放置されてしまっている。ま、ともかく、『モーセと一神教』は彼が生涯展開してきた理論の集大成になっていて、特に『トーテムとタブー』という1913年という初期の理論の発展形として提示されていて、正直うざいが、まあすこし面白い。

宣長「手枕」

宣長が源氏物語に欠損する巻を補うために書いたという擬古文の「手枕」を読んでみようかと思ったが、それなりに難しいので、ネットで検索してみると、京都歴史研究会というところに 宣長「手枕」現代語訳 というものがある。これは労作だ。他にもいろいろ面白そうな読み物があるのでそのうち読んでみよう。

追記: こちらが移転先であると思われる。

で、六条御息所の年齢についてなど読むと、御息所の年齢に矛盾があるので、その夫、つまり前坊(先の東宮、つまり皇太子)は、皇太子だったのだけど早死にしたので即位しなかったのではなく、何らかの理由で皇太子を廃されたことになるらしいのである。宣長の手枕では

どのような御心情を御持ちになられたのでしょうか、世間をどうにもならず空しいものと御考えになり、常々、何とかしてこのような苦痛で気詰まりな身の上でなく、生きている限りは、心穏やかでのんびりと、思い残す事無く、好きなようにして、日を明かし暮らしていく方法がないものだろうか、とばかり御考えになり時を過ごしておられたが、とうとう御考えのように、東宮を辞退申し上げなさり、六条京極辺りに居住してらっしゃる。

として、東宮みずからその地位を辞して(おそらく臣籍降下というのでなく、ただの親王となって)、のちの御息所の住居である、六条京極辺りに移り住んだ、としているのである。宣長自身の註釈に

このふみは、源氏の物語に、六条の御息所の御事の、はじめの見えざなるを、かのものがたりの詞つきをまねびて、ものせるなり

とある(鈴屋集七・鈴屋文集下)。思うに、宣長がこの文を執筆したいと思った理由は、単に源氏物語風の擬古文を書いてみたかったとか、源氏物語に欠落した源氏と御息所のなれそめについての巻を補完したかったということもあるだろうが、源氏物語を研究していてわいてきた疑問点や不審点、特に御息所の年齢問題に、きちんとした解決を与えたかったのだろう。

近世和歌撰集集成

上野洋三編「近世和歌撰集集成」明治書院全三巻。新明題集、新後明題集、新題林集、部類現葉集などの堂上の類題集など。他には若むらさき、鳥の跡、麓のちりなどの撰集。これらは地下の巻に入っているのだが、通常は、堂上に分類されないだろうか。私家集はない。国歌大観にもれた珍しい近世の撰集というだけあって、かなりマイナー感がある。しかもこれまた電話帳。なぜか貸し出し扱いになっていたが、家に持ち帰ってももてあますだけなので、とりあえずそのまま借りずに返却した。借りたくなったらまた行けば良い。「近世和歌研究」加藤中道館。論文集みたいなもの。それなりに面白い。

霊元天皇

車をも止めて見るべくかげしげる楓の林いろぞ涼しき

契沖

我こそは花にも実にも名をなさでたてる深山木朽ちぬともよし

数ならぬ身に生まれても思ふことなど人なみにある世なるらむ

高畠式部。
江戸後期の人だが、90才以上生きて明治14年に死んでいる。
景樹に学ぶ。少し面白い。

春雨に濡るるもよしや吉野山花のしづくのかかる下道

さよる夜の嵐のすゑにきこゆなり深山にさけぶむささびの声

なかなかに人とあらずは荒熊の手中をなめて冬ごもりせむ

最後のはやや面白いが、

なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり

なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ

などの本歌がある。「桑子(くはこ)」とは蚕のこと。「なかなかに人とあらずは」は「なまじ人間であるよりは」の意味であるから、「なまじ人間であるよりは荒熊になって、てのひらでもなめて冬ごもりしようか」の意味か。

なかなかに人とあらずはこころなき馬か鹿にもならましものを

これは狂歌(笑)。

なかなかに人とあらずは花の咲く里にのみ住む鳥にならまし