推理小説

なんか最近煮詰まるのでぐだぐだとブログに書くとだ。
私が小説を書くのに一番影響を受けたのは『日本外史』だろうと思う。
その他には『平家物語』とか三遊亭圓生の落語かと思う。
圓生はまあともかくとして、『日本外史』というのはとにかく登場人物が多くて、
いきなり出てきて消えていく。
ときどき義家とか頼朝とか清盛みたいなメインキャラが出てくるのだが、
よく読まないとこの人がこのへんの主人公ですってことがわからないから、
読んでいるうちにああ義家って割と重要?とかって気づく感じ。

『平家物語』もどうでもよい人たちが次から次に出てきてなかなか義経とか頼朝が出てこない。
古典がみんなそうではないが、いわゆる主人公がいないパターン。
現代では群像劇とかっていうのかな。

小説と違って現実世界には主人公はいない。
主人公はこの人で、ヒロインはこの人で、仇役がこの人で、というプロットは、現実世界には存在しない。
では現実世界をそのまんま切り取ったような小説は成立し得ないのか、読者を獲得し得ないのか、
と考えたとき、『平家物語』や『日本外史』なんかは、やっぱ主人公がいるとも、プロットがあるとも言いがたいのに、
かつては多くの読者がいた。
じゃ、そういう文学形態があってもいいはずではないか。

私が書いたものの中では『墨西綺譚』が典型的にそうで、もちろんこれにもプロットはあるのだが、
敢えて言えば、誰がヒロインか当てる推理小説みたいなものになっている。
ミステリーで真犯人当てるようなもの。
あれ、この子がヒロインかなと思わせといて実はやっぱりこっちでした、みたいな。

『安藤レイ』も推理仕立てになっているが、人は誰も死なない。
これもやっぱりヒロインはアンドロイドですねと思わせといて実は別の人でした、みたいな仕掛けになっている。
普通の推理小説ではない。
私はひねくれ者だから、
誰か人が殺されて真犯人を推理する、みたいな話は絶対書かないと思う。
歴史小説で軍人や武士が死ぬのはかまわないけど、
現代の民間人を殺すのは気が乗らない。
『墨西綺譚』ではやむなく一人殺したが、なんとか殺さずに済ますわけにはいかないかと悩んだあげく、
やはり彼には死んでもらわなくてはならないので死んでもらった。
そのくらい自分の話の中で人を殺すことに抵抗がある。

なんでかといえばたぶん私にはそういうのはテレビドラマのシナリオみたいな感じがするからだと思う。

『墨西綺譚』なんてのは、ある意味完全な失敗策で、最初に無駄にたくさんキャラが登場してくるので読者はあきれるだろうと思う。
でもあれはあれでもうほっとくしかない。主人公とヒロインがいて敵役がいるとか、
事件が発生してそれを解決するとか、
父が殺されたから仇をうつとか、
父に捨てられたから復讐するとか、
そういうのは書きたくないんだから仕方ない。
たぶん私は、敢えてそういう定番な王道な話を書こうとすると、ひねりをきかせられなくて窮すると思う。
つまり、誰もまだ使ったことのないプロットは簡単にひねれる。
みんなが使うプロットでひねるとみんなと同じようなひねり方にしかならないから、
そうではないひねり方をしようとがんばるがたいていもう誰かがすでにやっていたりして、疲れる。
だからできるだけ他人とネタのかぶらないことをやりたがる。
そういうことに違いない。

でも最近は割と主人公がわかりやすいように書くようにしているつもりだ。

アマゾンから振り込まれた印税

あんまこういうことは書かない方がよいと思うが、
2013年はkdpを始めた年なので、
少し具体的な数字を書いてみようと思う。
ええっと、それで新生銀行にアマゾンから振り込まれる用の口座を作ったのは4月だった。
売り上げは1月から発生していたのだが、最初に振り込まれたのは4月24日。1070円。
この金額が何を意味するのか、よくわからん。

で、4,5,6,7月の売り上げと6,7,8,9月の振り込み額がそれぞれ一致しているから、
2ヶ月後に振り込まれているらしい、ということはわかるんだが、
それ以降の金額は微妙に変動していて、どういう仕組みでこんな揺らぎができるのか、よくわからん。
でもまあ、例の手続きをやったから、アメリカ政府に源泉徴収されてないことは、ほぼ確かなようだ。

で、12月末日までに実際にアマゾンから振り込まれた額は19000円くらい。
1月にならすと1500円くらいか。
まあ体感的にもだいたいこのくらいだった。
微妙。
たぶん、確定申告するとしてもすべて必要経費で控除してもおかしくないレベルだと思う。
印税の必要経費ってどうやって計算するのかね。
も少し儲かれば税理士雇ってもいいくらいだけどね。

amazon.com とか amazon.co.uk でも割と売れたりする。
『古今和歌集の真相』みたいなお堅いのが売れたりして割とびっくりする。

そうだなあ。
年に100万円くらい印税が入ったら、どうどうとキンドル作家を名乗ってもよさそうだが、
まだ道は遙かに遠い。
ただ今後何もしなくてもずっと一定の振り込みがあると考えると(そんな保証は何もないわけだが)、
ちょっとした小遣いくらいにはなるわけだ。
100冊くらい書いてそのうち2、3冊がベストセラーになれば100万円にいきそうな気もするんだが(笑)。

ギリシャ人の王国

近々、『ギリシャ人の王国』という物語をキンドルで出版する。またまた旧作のリメイクである。
パブーで公開してたやつの焼き直し。
さほど手間はかかってない。
ただ数年前と比べれば多少テクニックは覚えた(笑)から、
少しは小説っぽくなってるかもしれない。

『エウメネス』が今もときどき売れていてアマゾン和書の中で、
古代ギリシャものの中では5位くらいにつけている。
わりと良い感じ。
印税で食っていくには程遠いが、今のところ突破口はほかに見いだせてない。

私としては『エウメネス』みたいなものをどんどん書いたほうがいいんだろうなと思う。
もとはといえば、『エウメネス』は『ギリシャ人の王国』から派生したものなのだけど、
世の中のギリシャ好きの人たちに受け入れてもらえるだろうか。
私はこの作品が一般受けするかどうか、まったく自信がない。
だけどまあ出さないでおく理由もないので出しておく。

私は、ギリシャと言っても古代ギリシャのことはあまり書きたくない。
『エウメネス』もギリシャものというよりは、ペルシャやインドの話である。
『ギリシャ人の王国』は十字軍が始まる直前の東ローマの話である。
たぶん私は誰もが知ってるわかりやすいネタで勝負するのが怖いのだ。
人気のないものをわざと取り上げるのが好きなのだ。
だから日本の歴史でも戦国時代とか幕末維新とか源平合戦はやらない。
わざとそういうところを外して書く。

歌と音楽

アリストテレスの詩学を読んで思うのだが、散文は文字によって言葉が記されるようになった後に現れた文芸形態であり、それ以前の口承文学はすべて韻文によって表されていた、と考えて良いだろうと思う。つまりかつては単なる意志を伝達するための(一時的な)会話と、記録を後世に遺すための(保存用の)韻文の二種類があった。韻文とはつまり暗記しやすく唱えやすい形態の言語、ということになる(韻文が会話、たとえば演説などに使われることはあったかもしれない)。

それで韻文、詩、或いは呪文とか祝詞とかお経とか歌と言っても良いのだが、これらがいわゆる音楽と不可分なものなのか、そうではないのかということを、ずいぶん考えてきたのだが、少なくとも日本の和歌の歴史を見る限り、歌は独立した文芸の形であって、音楽と不可分であるとか、或いは音楽に従属するものであるとは思えない。万葉集の時代でもそうだし、それ以前の歴史に残ってない時代にさかのぼってもそうだと思う。

あくまでも想像だが、イリアスやオデッセイなども、古事記などの成立と同様、最初はごく短いばらばらに伝承されてきた詩だったのだが、文字を獲得した時期に、誰かが、或いは大勢の人たちによって、集められ、つながれて、整えられて、韻文としての形式も同時進行的に発達してきて、あのような形になったのだろう。

延喜式の祝詞などはだいぶ散文的だが、反復や対句などが使われていて、やはり一種の韻文であろう。勅撰集の仮名序も祝詞によく似ている。掛詞や枕詞などが多用され煩雑だが、口承文学時代の名残なのに違いない。たとえば中国で完全な韻文が成立したのは唐代である。詩経の詩は韻文としては未発達である。万葉時代より以前の記紀歌謡もあまり韻文的ではない。そうすると昔には会話と韻文の区別さえ定かではない時代があった、と考えるべきだろう。

漢詩は非常にわかりやすい例だが、リズム(句の長さ)とメロディー(平仄と韻)がある。これらはどちらかと言えば音楽的要素だが、さらに対句があり、起承転結がある。これらの文書構造は必ずしも歌曲には必要ではない。しばしば邪魔ですらある。唐詩では短い詩形に情報を凝縮するために同じ字の反復を嫌うがこれも歌曲にするにはかなり大きな制約である。さらに暗喩や省略、倒置などと言った修辞があるが、これらは音楽的な要素とは言いがたい。おそらく今日的な自由詩の方が曲に合わせやすい(というより曲に合わせて手直しされる)のであろう。詩は自己完結しているので、必ずしも曲との相性が良いとは言えない。

また和歌の場合には、本歌取りというオマージュを盛り込む手法や、返歌という気の利いたやりとり、題詠で即興で詠むなどという遊び方がある。それを書としても楽しむ。これらも音楽的とは言いがたい。ただしこれらの趣向は今日ではほとんど忘れられてしまったが。カルタ取り以外は。

今の歌詞は字数や押韻などが割と自由で、曲を合わせることで初めて完成する。むしろ曲のないただの歌詞は不完全であって曲と合わせることで命を与えられるように見える。それからの類推で、韻文が未発達だった太古には、詩を音楽で補完していたのではなかろうか、と考えるかもしれん。そこから詩と音楽は不可分という発想も出てくるのかもしれない。しかし詩が未完成な時代には音楽もまたそうだったはずで、詩を補えるほどのものですらなかったと思う。

たとえば画賛とか歌合わせというのは、歌を絵画に結びつける。歌は音楽にも絵画にも舞踏にも結びつけられる。もちろん物語や軍記にも使われる。しかし、それらのどれにも従属していないし、それらのどれも歌に不可分な要素ではない。たとえば墓碑銘は詩である。しかし墓碑銘に何か曲が付いていると考える人はいるまい。念仏も俳句も詩である。
しかしそれらのごく短い詩に曲をつける必然性はほとんどない。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、私を誘惑から遠ざけてください、一夜一夜に人見頃、良い国作ろう鎌倉幕府、いずれもフシ回しは特に必要ない。

語源的に言えば歌は訴えること、唱うこと、謳うことであって、そこにはまず音声があり、リズムや調べも付随しただろうが、音楽的要素はむしろ、そこから派生していったというべきであって、歌の本質とはやはり言葉そのものである。読経を音楽ということも不可能ではない。だがお経はお経であって、ドラや木魚と不可分ではない。

歌を音楽や絵画や演劇と合わせるのはメディアミックスであり、それはそれでけっこうなことなんだが、私は歌はあくまでも歌だと言いたい。

ギリシャ哲学は忽然とギリシャに生まれたものではない。オリエント世界でたまたまアレクサンドロス大王がヘレニズム世界を作り、その文化をローマが継承した。その他の伝承はすべて失われた。近代、ヨーロッパが世界を征服した。だから、ギリシャにだけ哲学者がいたように見えるが、そういう見方はたぶん間違いだ。エジプトにもシリアにもペルシャにも哲学者はいた。自由な精神を持ち、自由な思索を楽しむ人たちがいた。ただ彼らはディオゲネスと違ってアレクサンドロスと出会わなかった。ただそれだけだ。

不良債権としての『文学』

j:com の smart tv boxちゃんが来たのでさっそくimagica bsで録画したブラックホークダウンやら、au video passで見放題の吉田類居酒屋放浪記などを見ている。book passでスマホにたくさんマンガを落としたから通勤途中に見るだろう。

それはそうと、[不良債権としての『文学』というのを読んだのだが、読んでみるとごく当たり前の主張だ。大塚英志氏の書いた本は、たぶん私が読むといらいらして読めないと思うのだが、要するに専門学校生や大学生にプロットの組み立て方を教える本であって、誰が書いても同じようなことは書くだろう。

戦前から戦後のある時期まで文学全集が馬鹿みたいに売れた時代がありました。その時の高収益体質は、細かく検証しませんが「文学」の既得権を形成した現在の高コスト体質に繋がっています。

文芸というものをビジネスモデルで見た、実に面白い指摘であり、たとえば永井荷風が大学教授を辞めて文筆業で食って行けたのはたしかに文学全集が売れたからであり、今日我々が「文豪」というイメージを抱いているのもそうした作家である。今や「紙」の文学全集や百科事典ほどばかげたものはない。ああいうものはようは、昔家を建てたときの家具や調度品の一種として買われていたものであり、神棚の一種で、別に実際に読んだりするものではない。本当に読もうという人には不便きわまりない。今ならウィキペディアやキンドルを読むだろう。多くの愛書家というのは結局は自宅に自分だけの文学全集を作ることが好きなだけであり、蒐集家の一種であり、だから紙の本が好きなのにすぎない。逆の言い方をすればキンドルではそういった蒐集癖を満足させることはできない。こどもが切手や昆虫やカードを蒐集するのが好きなようなものでこれはどうにもならない。

大塚氏はコストがかかりすぎる現在の出版業そのものを疑問視し、コミケを参考にした「文学フリマ」などというものを提唱しているが、これは今kdpの世界でまさに進行していることだろう。「文学」と同様、出版業界もまた既得権化しているからで、それは出版にコストとリスクがかかるからであり、よって元の取れる本ばかりが本屋に並ぶことになる。彼の言うことはいちいちもっともだと思う。

小谷野敦氏が「大塚の文章は非論理的で、下手というより平然と論理をすりかえる詭弁と直観だけで書いていて、それを実証的に検証しようという姿勢がない」と批判しているそうだが、確かにこの「不良債権としての『文学』」という一文を読むだけでも、そういう印象を受ける。威勢は良いが実がない気がする。

でまあプロットを作る技術を教えれば多くの人が小説を書けるようになるだろう。しかしこれはハリウッド的娯楽のプロットですとか、これはミステリー、これは恋愛のプロットで、起承転結があってここが盛り上がりで、ここで落とすとか、そういう文書技術の部分をどんどん取り除いていってあとに何も残らないのは、種のない果実のようなもので、それは天然自然のものではない。世の中は種なしブドウや種のないミカン、バナナ、無精卵のほうが好まれる。種があればそれをよけて食べる。パパイヤに種ごとかぶりつく人はいない。そんなゴリラかオランウータンみたいな食べ方はしない。

プロデューサーならば売れればそれで良いかも知れないが、原作者は実は自分の作品の中に種を仕込みたいのではないか。私なんかはそうだ。いや、作家になるのが最終目的であって何を書くのかというのはあまり関係ない、とにかく売れるものが書きたい、というのであればそれでもいい(逆に自己表現したい何かか自分の中に何もないと作家になれないから、わざと異常な体験をして特別な自分になろうとする人もいるわな)。「自己」より「人と人とのつながり」のほうが大事という人はいくらでもいる。どちらかといえば劇場でパフォーマンスしたい人や営業の人、プロデューサーなどがそうだ。

私は違う。私にとって文章というのは所詮は手段だ。私が死んだあとにもこの世に自分という種を残したい。種だけ残しても誰も見向きもしないから、そこにストーリーという果肉をまとう。みんな果実は好きだから食べる。種ごと食べる。せっせと食べてもらえるようなおいしい果実を作ろうと努力する。種ごとたべない人が多いかもしれないが、たくさん出回ることによって種の存在に気付いてくれる可能性は高まる。それが原作者のわがままだと思う。

トイストーリーやボルトなんか見ていると、原作者や原画のわがままなどという要素は注意深く、完全に取り除かれている。完全に種なしにされている。確かに繰り返し見ればみるほどにさすがディズニーだな、さすがハリウッドだなと感心されられるが、そこからディズニー的、ハリウッド的な要素を取り除くと何も残らない。完全に去勢されている。

ハリーポッターはさすがに原作がきっちりしているのと、原作も合わせて読むことができるから、原作者の鬱屈した自我というかどろどろとしたこだわりが伝わってくる。ハリウッドがそれをいかに子供にもわかるエンターテインメント作品に仕立てて、3DCGで飾っても、ある程度は残っていて、だからハリーポッターの作者は作品に種を残すのに成功しているといえる。

スピルバーグとルーカスを比べると、スピルバーグはユダヤ人、ルーカスはイングランド系だからかもしれんが、どちらもハリウッドの娯楽映画を作る人ではあるが、スピルバーグのほうがはるかに屈折したものを作り、ルーカスのほうがよりハリウッドに向いているといえる。私はどちらかと言えばスピルバーグのほうが好きだ。そういう苦さや雑味に味わいを感じるからだ。

スピルバーグやコッポラなんかの作品を除けばハリウッド映画は総じて予定調和であって、だいたい展開が読めるからつまらない。逆に老若男女だれでも安心して楽しめる。いくら激しいアクションがあっても箱庭の中で暴れているようなもの。いきなり主人公が死んだりしてパニックに陥ることがないようにできている。水戸黄門やさざえさんや笑っていいともがいつも同じなようなものだ。私なんかはよくまあああいうものを飽きずに見ていられるなと思うが。それだけ予定調和に需要があるからだろう。

そういう意味ではパーフェクトストームはほとんど唯一の例外で、私は最後に予想を裏切られてびっくりしたのだが、おそらく海の波を3DCGで表現することが至上命題で、そのため実話をなぞる必要があったのだろうと思う。そこには青の六号に対するハリウッドの激しい嫉妬・対抗心が感じられて面白いが、そういうところを楽しむことじたいハリウッド映画には想定されていない。

ま、そういう意味ではブラックホークダウンも若干ハリウッド的テンプレからは外れてるかな。でも今見るとやっぱりいたるところアメリカ臭がする。

留置まし

[反実仮想まとめ](/?p=4190)が良く読まれているのがおかしいのだが、
たぶん「反実仮想」「まとめ」でググって来ているのだろう。
記事のタイトルに「まとめ」といちいち入れるとアクセスが増えるかもしれない(笑)。

これは先に
[まし](/?p=4121)、
[とも・・・まし](/?p=4185)、
というのを書いてさらに調べたものを追加してまとめたという意味。もとはといえば、
吉田松陰の

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

という歌の解釈が難しいからである。
それでまあ、今改めて考えてみるに、
幕末は武士の勇ましい和歌が流行していて、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」「大和魂」などはまさに当時の志士が好んだ言い回しなのだが、
なぜか「留め置かまし」の部分だけが非常に雅びで女々しい。
そうするともしかして「大和魂」もまた、
源氏物語に出てくるような女々しい意味で使われているのではなかろうかという疑いが出てきて、
この歌は実はかなり弱音を吐いた歌なんじゃないかと思えてくるのである。

でまあ吉田松陰がそこまで意図してこの歌を詠んだかどうかわからんのだが、
この歌は幕末の殺気だった雰囲気と平安朝の雅びな雰囲気が混在していて、すごく違和感がある。
すごく困惑させられる。
で、以前にも書いたように、私なら、「留め置かまし」ではなく「留め置かばや」とか詠むだろう。
「まし」だと「まほし」の誤用ではないかと誤解される可能性がある。
そう思われるのが怖いからたぶん私は「ばや」にするだろう。
「留め置かむ」が良いが字足らずで「留めて置かむ」ではなんか力が抜ける。
「留め置きてむ」は強いがちょっと違う。
「留め置かなむ」だと「留めおきたいなあ」みたいな感じで変。

川越素描では、吉田松陰の歌を元にしつつ、やはり「ばや」で受けた。

> 資長のアリア(I)

> おお、佐枝、無念なり 忠勤尽くせし我が君に

> 謀反の疑念をいだかれて 今こそ我は討たれたれ

> 願はくはこの魂魄を 東(あづま)の国にとどめおき

> 憎(にっ)くき仇(かたき)上杉の 子孫の胤(たね)を絶やさばや

まあこれだと紛れもない武士の歌である。
でも完全な武士の歌にしてしまうと物足りなくもあり、味気なくもある。
だから、吉田松陰の歌は「留め置まし」でなくてはならず、
そうでなければ維新となって爆発する内部応力をこの歌は持ち得なかっただろう。

文書の体裁

アマゾンのカスタマレビューなどで良く指摘される字下げ、句読点と括弧の関係など、
すでに以前に、
[字下げ](/?p=13528)、
[句読点の省略と新聞社について](/?p=7776)、
[句読点とかぎかっこの件](/?p=7753)、
などで書いたような基準で意図的にそうして書いているのであって、
私の書いたものに限っては、誤記誤植のたぐいではない。
字下げしてないのもあるがそれは昔そのように書いてしまっていまさら直せないだけで、
今は最初から字下げなしで書いている。

字下げは今のCNNやワシントンポストやその他の英語サイトをみても、どこもやってない。
パラグラフやセンテンス、コンマやピリオドやダッシュ、コロン、セミコロン、引用符や括弧などはすべて欧文の輸入であるから、現在の欧文の主流に合わせるのが自然だと思う。

今の私の書き方は、基本的にはこのブログのスタイルシートに合わせている、と言える。
文書の体裁やレイアウトはテキストではなくスタイルが決めるべきである。
著者が空白文字を使っていちいち字下げするなど論外だ。
パラグラフは空行で区切るのみ(キンドルでは通常改行のみ。たまに空行を入れることもある)。
パラグラフはp要素だから、p要素の先頭にマージンを入れるようにすれば字下げは自動的に実現されるだろう。
しかしスタイルシートをいじろうという気持ちにさえならない。

国語教科書ではパラグラフの先頭を一文字あけて、パラグラフの間は特に必要なければ改行のみ、だろう。
私はもはやアマゾンで個人作家でいくことに決めているので、
出版業界の慣習にも文科省の指導にも従うつもりはない。

ところでフローニの原文とかみるとやはり字下げしてある。
昔は欧文も字下げしていて、
それが日本に輸入されたのであろう、と思うのだが、
塙保己一が始めたという説もあり、彼は江戸中期なのでなんとも言えない。

他人の小説やブログなどみると、一番脱力するのは、
1センテンスごとに改行してたり、
1センテンスが1パラグラフになってたり、
パラグラフがどれも異様に短いのにパラグラフ間の空行がやたら広かったりすることだ。
たまにおもしろいのがあれば読むけど、
章立てはまだしも、
センテンス、パラグラフなどの文書構造の基本がでたらめな(いわばマンガのセリフが羅列されたような)文章は読む気がしない。

敷島の道

「敷島の道」なんてのは足利尊氏が歌に詠み始めた(流行らせた)なんて書いたのが気になって調べてみたのだが、「しきしまの」は「やまと」などに懸かる枕詞でこれは古語だ。
崇徳院御製に「しきしまのやまとのうた」というのがあるが、これは和歌のことであるが、貫之が「やまとうたは」などと言っているのとなんら変わらない。少なくとも古今集の時代にはあった言葉だ。宣長の「しきしまのやまとごころ」これもまた平安中期頃にあっておかしくない言い方。

しかるに「しきしまの道」を「歌道」という意味に用い始めたのは案外新しいはずだ。
たぶん初出はなんかの歌学書もしくは勅撰集の仮名序であろう。明らかに後世作られた「歌学用語」である。そもそも「道」なんてことぱには要するに宣長があまり好きではない漢才の匂いがする。

和歌に詠まれた「しきしまのみち」の初出は玉葉集らしい。九条孝博

おろかなる身をば知れども代々経ぬるあとをぞたのむ敷島の道

ただこれ、初出な上に「日本の道」と言ってるだけなんでほんとに歌道の意味で使ったかは不明。だんだんと定着していったんだろうけど。

冷泉為相

これのみぞ人の国より伝はらで神代を受けし敷島の道

二条為藤

住吉の松の思はむことのはを我が身にはつる敷島の道

住吉の松も花咲く御代にあひてとがへり守れ敷島の道

うーん。ほんとに和歌のことかどうか、あやしいよな。

為藤は為世の子だから明らかに二条派だろうな。為相はどちらかといえば京極派?

玉葉は伏見院の院宣による持明院統と大覚寺統に分かれて争っていた鎌倉後期の成立、
しかも京極派が優勢だったころで、かつ、九条孝博は玉葉集の選者の一人で伏見院の側近、どちらかといえば京極派だったかもしれない。いずれにしろ歌論というものがやかましく言われるようになったころに生まれた言葉だわな。時代的に足利尊氏がその影響をもろに受けたのは自然。ていうか東国の武士が朝廷に接近するためにはまずは和歌を学ばないと、敷島の道にはげまないと、と彼は考えただろう。尊氏が歌好きだから将軍はじめ武士はみんな和歌好きになってしまった。

なにごとも思はぬ中に敷島の道ぞこの世の望みなりける

すごいよなこの尊氏の歌。足利将軍の歌ですよといわれなきゃ誰もわかるまい。ましかし武士だからこそ逆にこんな言い方をしたのかもしれんが。

こういうの調べ始めるときりがないんだけど。

追記: 敷島の道2

改版

以前は、My Kindle で一度削除して、無料キャンペーン期間中に買い直せば、
新しい版と入れ替えられたのだが、今はそれがうまくいかない。
いつまでも誤植のある昔の版になってしまう。
どこまで読んだかとか履歴が残ってるんだよな。

なんかうまい方法ないんかね。
お問い合わせ以外に。

j:com smart tv box + sony xperia z ultra

結局 smart tv box を契約。
近々NTTとアサヒネットは解約することになる。
ああもう何年前からアサヒネットを使っていたことだろうか。
その前はたしかリムネットだったと思う。
その前はたしかアスキー・インターネット・フリーウェイとかいうやつを使ってたと思う。
全部自宅ネットの話ね。

スマホアプリでチューナー操作できるのが
21世紀って感じ。
チューナー3つあるからよくわからんが1つ見ながら2放送を同時録画できるってこと?
地デジならテレビに外付けのhddにも録画できるから、一度に3放送同時録画できるかもしれん。
すげーオーバースペックだわな。

外付けHDDは4台まで同時につなげて、8台までは認識するらしい。
smart tv box に hdd がユニークに割り当てられていて、
従って hdd が壊れても smart tv box が壊れても、
録画した動画は復旧できないということらしい。
だがブルーレイディスクレコーダーを外付けするとブルーレイに保存することも不可能ではないらしい。
そんな使い方するだろうか。
んで、店員さんに、容量2TBだと8台で16TBまでしか録画できませんねとか言うと、
そんなにたくさん見てる時間はありませんよと言われた。
そりゃそうだ。
ていうかそういう使い方は不正利用につながりかねんというので技術的制約というよりは、
単に制限かかってんだわな。

んでまあ、アサヒネットのwimaxルーターだが、解約すると使えなくなるんで、
いよいよスマホでテザリングと思い、
xperia z ultra という、一昨日でたばっかのモデルを買うことにした。
スマホというよりはちっさいタブレットって感じだな。
すげえ便利です。
これでガラケーもwimaxルーターもタブレットもみんな1台ですむではないか。
すばらしい。
もともとタブレット派だったんでポケットに入らなくても全然OK。

やっぱ国産は良いわ。ソニー最高。

2年ちょっと前に入院体験を忘れないうちに小説にしておこうってんで、
[安藤レイ](/?p=9171)ってのを書いたのだが、
wimax と、スマホと、ベトナム新幹線と、看護アンドロイドと、人工知能が実現している近未来、
という設定で書いていた。
wimax はもはや LTE になった。
スマホなんていまじゃ誰でも使ってる。
ベトナム新幹線は10年後くらいか。
アンドロイドはたぶん20年は無理で、
人工知能はおそらく50年くらい先の話じゃないか。
いやはや、SF考証は難しい。
特に情報通信の進歩が他よりずっと速くてすぐ古びるってことに気をつけなくちゃならんわな。

ついでに2020 (トゥエンティトゥエンティ)という話を2年半くらい前に書いて、
未だお蔵入りになのだが、
これは西暦2020年のお話で、2012年くらいに保守連立内閣が成立して道州制が導入され、
人口500万人くらいの巨大政令指定都市が生まれ、
そういう巨大都市の市長がすごい権力を持つようになって、
外国人移民特区みたいなのができて、という設定だったが、
結局保守連立で55年体制みたいなものはできず、
民主党が壊滅して自民党圧勝となった。
未来を予測するのは難しい。
あたったのは、民主党体制は長続きせず保守政権が復活するというところだけなんだが、
まあそのくらいは誰でも予測できるわな。