大塚英志『キャラクター小説の作り方』

非常にためになった。
親切に書かれた良い本だと思う。
ところどころ反論したいところはある。
彼が「キャラクター小説」と言いたいところのものは今の「ラノベ」である。
彼がこの本を書いた2003年当時には「ラノベ」という言葉はなかった。
ラノベや漫画やTRPGについて語りながらいきなり
柳田国男の『頓阿の草庵集』の話が出てきたのも面白かった。

少し調べればわかるのだが、
大塚英志という人は筑波大学で千葉徳爾という人のもとで日本民俗学を学び、
千葉徳爾は柳田国男の弟子であった。
大学院に進学して研究者になろうとも思ったらしい。
だから柳田国男とか頓阿とか草庵集を知っているわけだ。

柳田国男とか佐佐木信綱などは明治時代からのインテリで戦後まで生き残って、
戦後民主主義教育のステレオタイプを作った人で、
どうにかしなきゃならんと常々思っている。
柳田国男は明治の中頃、類題集で和歌を学んだという非常に貴重な体験をした人のようだ。それで恋愛経験もない深窓の令嬢までもが「忍ぶ恋」とか「逢わぬ恋」などの題詠で恋の歌を詠む練習をしていた、というのに矛盾を感じていたというのである。
そういう「虚構の歌」はよろしくないということはすでに江戸後期の国学者の中に気付いていた人たちがいた。
小澤廬庵や香川景樹らだ(というより鎌倉後期に出て題詠を否定した京極派辺りが最初に問題意識を持ったんだろう)。
ところが明治の歌人らは、廬庵や景樹の先進性までも頓阿といっしょくたにして切り捨ててしまった。新しいか古いかという基準でしか歌を考えられなかったのだろう。古くても良いものもあれば、古くて悪いものもあり、新しくても悪いものもある。
私から見れば頓阿というのはひどくまずい歌詠みだ。
歌がまずいだけでなくてその書いた歌論やらがひどい。
嘘ばっかり書いてる。
頓阿はただ有名なだけで最悪な歌詠みと言って良い。
頓阿によって歌道や歌学というものがどれだけゆがんだか知れない。
そのゆがみを直すためにどれほど国学者が努力せねぱならなかったか。
頓阿はとても悪い。
でも景樹はかなり良い。
上田秋成なんかはすごく良い。
宣長には良いのも悪いのもある。
古いものでも一つ一つ丁寧によりわけて悪いものを捨て良いものを残す。そういうてまひまのかかる作業を明治から昭和にかけての学者たちはしてくれなかった(しかし『日本歌学大系』という名著を編纂したのも佐佐木信綱だった。なんたる皮肉。つまり彼は古いものをひとまとまりにして倉庫に入れて封印する仕事をしただけだった)。

話はそれるが、
皇族、武士、町人は割と面白い歌を詠む。
公家は歌読みは多いが良い歌詠みはそんなにいない。
僧侶には良い歌詠みは滅多にいない。
西行や蓮生あたりまではよかったかもしれんが(というかこの二人はもともと武士だが)、
慈円なんてのは凡作ばかりだし、
鎌倉・室町までくだると坊主でまともな歌人はかろうじて正徹くらいではないか。
江戸時代だと契沖、良寛が少し良い。

大塚英志はまた明治の文学には「言文一致」と「候文」の二種類しかなかったような書き方をしているがこれは嘘だ。
「言文一致」というのも今から見ればそう見えるわけで当時としては新奇な人造言語だったし(大塚英志自身がそれに気付いているのに!)、「候文」なんてのは江戸時代の武家の公文書にむやみと使われただけの、
日本古典文学から見ればゲテモノに過ぎない。
彼らは古文は古くさい因習で、現代文によって淘汰されたことにしたくて仕方ないのだ。
そこが柳田国男とか佐佐木信綱の悪いところだ。
現代文にも淘汰されるべきものが多くある。
淘汰圧がまだかかってなくて残っているものがたくさんある。

それはそうと、キャラクターとは記号であり、小説はTRPGのように書くべきだという考え方には大いに共感した。
私の小説もゲームの影響を強くうけている。
キャラクター設定とはAIであり、
世界観とか舞台設定はマップであり、
マップの上にアセットを配置して、ゲームをリプレイする感覚でストーリーを作っていく。
ただ私はそれをTRGBのような、パーティを組むみたいな手垢の付いたストーリーにしたくないだけのことだ。
これから小説は、ゲームの開発環境のように、アセット作る人、キャラクター作る人、キャラクターのAI作る人、マップ作る人、ストーリーというか世界観作る人、テンプレ作る人、みたいな分業体制になっていくんじゃないか。ハリウッド映画もすでにそうやって作られている。ストーリーの生成はある程度自動化されるんじゃないか。一人の人間がいきなりワープロに向かって何か書くというやり方は効率悪すぎて、そのうち勝てなくなる、と思う。ほとんどの小説はそういうふうにして作られて消費されるようになる。というより、一発当たった作品はそうやってよってたかって再生産されていく。ルーカスがいなくても未来永劫スターウォーズが作られていくようにして。
だからまあそこから外れたもの、そういうものの大もとの企画や原作を書いてみたい気もするが、そういうものは社会的な需要がないから受け入れられないだろうし、よほどのことがないと当たらないということになる。

私が小学一年生の時に見た「トリトン」を大塚英志は中学生で見たという。
アニメ史に残る富野由悠季の業績とは「ガンダム」ではなく「トリトン」だと言ってて、面白い視点だなと思った。

高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』

> もちろん、小説が嫌いな小説家はいないはずです(たぶん)。

さて。
私が小説家かどうかはひとまずおいて、
私はどちらかと言えば小説が好きだから小説を書いているわけではない。
私は最初は画家になりたかった。
それから歌人になりたいとも思った。
画家と歌人ではそもそも飯を食えないし、
才能を判断される基準が曖昧としか言いようがないし、
ともかく食うための仕事をしないわけにはいかないので、
私はなんとか論文を書く仕事についた。
論文を書くのは楽しいけれどむなしくもある。
世界でおそらく私の論文を楽しく読んでいる人は三人くらいしかいない。
死んでからときどき見つけて読んでくれる人がいるかもしれない。
それでも良いと思ったが、あるときから論文を書くのがばかばかしくなってやめた。

歌人になるにはおそらく新聞とかの歌壇で評価されねばならないのだろう。
まっぴらごめんだ。
そういう仲間になる気はない。

それで私は自分が詠んだ歌を小説の中に紛れ込ませる方法を考えついた。
和歌の本を買って読んでくれる人よりも小説の本を買って読んでくれる人のほうがはるかに多い。
それで本がたまたま当たったら、そこに載ってる歌に気付いてくれる人が出てくるかもしれない。
ともかく読まれないことには、私の歌を世の中の人に知らしめることはできない。
それで私は『日本外史』などを読んでやっと日本史というものに興味が出てきた頃だった(『日本外史』は明らかに小説ではないわな)。
私は日本史などというローカルな歴史にはもともと興味がなかった。
世界史ばかりおもしろがって読んでいた。
ところが『日本外史』という武家の通史を読んでみて、
承久の乱とか南北朝とか室町なんていう時代がけっこう味があって面白いなってことに気付いた。
おそらく世界史を知っていたからこそ南北朝みたいな話に興味が持てたのだと思う。
歴史小説の中に自然にとけこむような歌の詠み方を私はすでに習得していた。
完璧な大和言葉で和歌を詠む訓練をした。
そうしたらだんだんと本居宣長や上田秋成なんかの国学者の気持ちがわかってきた。

そうしてまず歴史小説から入っていったのだが、
この歴史小説というやつも新人賞なんかで募集しているところは少ない。
無いことはないらしいが、たぶん私の書くようなものは求められてない。
それで新人賞に応募するために現代小説らしきものを書き始めた。
というのがおおよその流れだったと思う。
それでもともと世界史は好きだったから、和歌とは離れて世界史の歴史小説も書き始めたのだが、それでも最初は主人公がオマル・ハイヤームのものを書いた。彼の詩に興味があったからだ。ここでも関心はどちらかと言えば歴史であり、詩であって、小説ではなかった。私はいまだに自分がどういう小説を書けば良いのか良くわかってない。むしろいまなお人に読まれて自分が書けるものがあるならそれを見つけたいと思っている。

> 短い詩と、それより長い詩、この二つは、明らかに詩です。

> しかし、なぜ、詩なのか、説明してくれ、といわれると、それは難しい。改行してあるから詩、というわけではないし、韻を踏んでいるから、リズムがあるから、繰り返しがあるから、詩だ、ということにはならないのです。

> わたしは、詩、という確固たるものがあって、それに向かっているから、詩なんだ、とういう説明が一番正確なのではないか、と思っています。

谷川俊太郎の詩は、私もなぜこれが詩なのか、うまく説明できない。というより、私は谷川俊太郎という人のどこが良いのかわからない(つまりまったく評価していない)。彼を評価するくらいなら、私は江戸時代までの歌人や詩人を評価したほうがずっとましだと思う。私にはいろいろな意味で現代文学の良さがわからない。
現代自由詩がなぜ詩であって小説ではないのか。そんなことをいくら説明しようと試みてもムダだと思う。いろんな人がそれを説明しようとしてきた。丸谷才一も『日本語のために』で似たようなことを書いていた。
一度は納得した気になっていたが、
和歌を学び、漢詩を学び、ペルシャのルバイを学び、ドイツ詩を学んで、
ますますわからなくなった。
「王様の耳はロバの耳」と同じことだ。
誰も、現代詩が詩じゃない、って怖くて言えないだけなんじゃないのか。
私はこれまで和歌を中心にいろんな詩を学んできた。
だから私は(少なくとも日本の)現代詩は詩じゃないって言う資格があると思っている。

> (もっと正確にいうと「岩波文庫」に入っているような)文学史に名を残すような文豪たちの本が、どんどん絶版になっていることをご存じでしょうか。

> 現代の読者は、そんな古い名作より、生きのいい現代の作品の方を好んでいます。

いつの時代もそうかと思うが、
一番小説を読むのは中学生から高校生くらいの子供だろう。
或いは一般大衆はドラマを好む。
彼らには歴史がわからない。
義経信長秀吉家康龍馬。そういう加工された歴史しかわからない。
古典はそういうマジョリティに消費される娯楽作品にはなれない。
岩波文庫を見ればわかる。
逆に年を取ると歴史がわかってくるから古典が読みたくなる。
そういう人たちの需要のために今も岩波文庫はあるといえる。
ただそれだけのことだと思う。

> 読者は保守的です。読者は「楽しませてくれ」という権利を持つ王さまです。その、読者の楽しみのほとんどは「再演」の楽しみ、いままで楽しいと思えたものと同じものを読む喜び、確実に楽しめる喜びです。そして、作者はその王さまのいうことを聞く家来 ― それが、いまの小説の悲しい現実です。

そりゃそうだ。
そんなことは物書きならみんな知ってる。
知らないことを知る喜びなど読者にはない。
彼らは自分が中学や高校でならった古典をおさらいしてやると喜ぶ。
そうでないことは理解できない。

> 小林秀雄 全作品

> 日本でもっとも高名な批評家である彼の文章は、批評の世界では、まねしつくされましたが、小説としてまねする人は意外と少ないようです。活用するべきでしょう。

文体を真似たひとはいるのかもしれないが、小林秀雄を真似て成功した人がいるとは思えない。私は小林秀雄のすべてはわからないが、自分の得意分野、たとえば『本居宣長』『実朝』などは理解できたつもりである。それで小林秀雄のような文章を書きたい誘惑に駆られたこともあるが、そんなことしたら誰もついてきてくれないと思う。
彼が、誰も気付いてないことを気付く本物の批評家であることは間違いないと思う。でも、彼の文章を読んで、誰も気付いてないことに最初に気付いた人であることに気付く人はおそらく皆無だ。みんな何が書かれているかわからずに読んでいる。
小林秀雄は非常に不親切な文章を書く人で、かつ文章のクオリティにものすごくムラがあって、大半はわけのわからないことをただぐだぐだ書いているだけで、たまにすごいことがぽろっと書いてあったりする。
小林秀雄だからああいう文章が許されるのだ。
そして彼は、読者が結局誰も自分の文章を理解してないってことに気付いていて、それでどんどん不親切になっていったのだ。丁寧に親切に書いても、不親切に書いても、どっちにしたって理解されないし、理解してくれる人はどんなに不親切に書いても理解してくれるんなら、親切に書く努力がばかばかしくなる。
そう、少なくとも彼が宣長について書いていることのかなりの部分は、別に難しいことじゃない。読み取ろうという気があって読めばわかるようには書いてある。

言文一致

たまたまヒマがあって図書館で「小説の書き方」みたいな本に一通り目を通したのだが、
どれもだいたい明治の頃に「言文一致」運動というのがあってそれまでは書き言葉と話し言葉の二種類があったのだが、書き言葉が捨てられて話し言葉で小説を書くようになったなどという説明がある。
これは嘘とまでは言えないがものすごく乱暴な言い方だと思う。

そういうことを言っている人たちは、江戸時代に女子供らが読んでいた、
例えば「春色梅暦」のようなものを読んだことがないのだろう。
もちろん厳密に小説(novel, Roman)と言えばそれば西欧のものだが、
それがそのまま輸入されてそれまでの日本の読み物がすべて淘汰されたのではない。

たとえば「言文一致」で語尾を「だ」とか「です」とか「である」にそろえたという話があるが、
そのこと自体からすでに「話し言葉」ではない。
明らかに、当時の話し言葉からサンプリングした新しい「書き言葉」に他ならない。
つまり明治維新がなって、日本人が誰でも読める本や新聞の文体というものが必要になったから、
それを当時の東京山の手辺りの話し言葉を基準に決めたというのに過ぎない。
それまでは共通語と言えば古典語しかなかった。
完全な正書法をもっていたのは、和歌などに使われる比較的きっちりとした大和言葉しかなかった。
無節操に漢語や仏教用語などを取り込んだ平家物語などは文章に書けば読めなくはないが、
あれを註釈無しで耳で聞いてわかる人はあるまい。
しかし大和言葉ならば意味と音が比較的きちんと対応しているから、
音声だけで意思疎通が可能だった。つまりは「話し言葉」として使うことも可能だった。
もちろん大和言葉だけでは新しい概念を表現できないから漢語など交える必要がある。
本居宣長の玉勝間などもそうして書かれている。
うぞうむぞうの方言に分かれていた封建時代の日本において日本人が誰でも読めるような書籍を書くには宣長のような書き方が一番現実的な文体だった。
そういう古典語が廃れたのはおもに西洋の概念を急速に輸入する必要があったからだ。

「春色梅暦」は当時の江戸の話し言葉で書かれているから今の私たちが読めばものすごく読みにくい。
仮名遣いもむちゃくちゃなので今の現代仮名遣いになれた人も、
当時の歴史的仮名遣いになれた人にもとても読みにくい。
いずれにしても話し言葉をそのまんま文章にした小説というものであれば、
多少の古典的言い回しは混じっていたにせよ、江戸時代にもあったのである。

山東京伝の黄表紙や為永春水らの人情本ですら読みにくかった。
今私たちが聞いている落語にしたって江戸時代のものをそのまま聞けばわからんに決まっている。
落語の多くは、元ネタは江戸時代にもあったかもしれないが、明治になって直したもの、
或いは明治になって新しく書かれたものだ。

話し言葉というものはそのまま文章にすればものすごく読みにくいものだ。
そんなことは今も口述筆記でそのまま話し言葉を記してみただけでわかる。
話し言葉と書き言葉の違いは現代でも歴然としてある。
今の書き言葉が読みやすいのはきちんと全国的な標準が定められて、全国一律で教育され、
またすべての出版社や放送局がその決まりを守っているからに過ぎない。
近代以降の国語はいずれも、多かれ少なかれ人工言語であり、極めて人為的なものだ。

無敵ヒーローとボスキャラの様式美

無敵設定の主人公ってのはよくあって、
また、無敵設定の敵キャラというのもよくいる。
また普段は普通だが無敵モードになると死なないとか。

で、無敵と無敵が戦ってどちらかが勝ちどちらかが負けるのはまさに矛盾なので、
いろんなお約束が考えられてきた。
無敵ヒーローが死ぬのがストーリーの中の一番の山場であるから、
ここに伏線を張るためにフラグというものが仕込まれるようになった。

だいたい鑑賞者は主人公が死ぬのはいやがるので、それなりの理由付けと舞台設定がないといけない。
解釈不能な死に方をするとたいてい暴動が起きる。
主人公が普段はやらないようなことをやったり、一瞬の気の緩みのすきに雑魚キャラに倒されるとか。
ヒロインが家で帰りを待っているとかだ。

ボスキャラの倒し方も、こちらはどちらかと言えば映画というよりゲームの方で発達してきた。
まず敵の弱点を見つけて、そこに攻撃を集中し、無駄な攻撃はしない。
体力を回復し、アイテムを取得しつつ、じわじわと敵の体力を減らしていくという戦法。

これらすべてが今日ではほぼ定番というかお約束というか様式美にまでなっていて、
そういうもんだという刷り込みができている。
だけどこういうお約束というのはだいたい20年くらいの歴史しかなく、
特にラノベみたいなのはここ10年くらいで急速に様式化が進んだのだと思う。
そういう世界をあまり知らない者にとってはなんで作者は、監督は、こんなふうなストーリー展開にしてしまったのだろう、
とわけがわからなくなってしまう。
なんか独自の解釈、独自のストーリーが作れる人なのかも知れないとさえ思う。
だけどお約束を一つ一つ調べていくと、すべてが実は既存の様式美の組み合わせでできているってことがわかり、
しらけてしまう。

そんでコッポラの作品なんかは、あれはちゃんと見ればラノベ世代より古い様式美で構築されていて、
盛者必衰の理というやつでできているから、
ああこれからどのキャラが死ぬなとか、どのキャラは死なないなというのが、
きちんと説明されているのである。
ゴッド・ファーザーはもちろん、地獄の黙示録もそうだ。
おそらくコッポラは古典芸能的な様式美にこだわるほうだ。
映像表現にしてもストーリーにしても。
きっとオペラとかギリシャ悲劇なんかを理想にしていると思う。

古代ギリシャでも劇作家がけっこう処罰されたりしているのだが、
表現の自由の問題もあるのだろうが、
作家は自分が作りたいように作ってはいけない、鑑賞者の許可が得られないものは作ってはいけないということなのだ。
それが悲劇の可能性を狭め、テンプレを作りがちにしても、作家はそこから先の実験はしてはならないのだ。
ジョージ・ルーカスが、ロシアの監督のほうがより自由に映画を作れると言っているのもだいたい似たような意味だろう。

世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる

西洋近代とイスラムというのは、どちらも同じものなんだよ。
イスラムがたどったのと同じことがこれから近代西洋文明に起こる。
イスラムは近代西洋を導入しようとして結局は失敗した。
そりゃあそうだ、近代西洋はイスラムのコピー(おそらくは劣化コピー)なので、
イスラムを近代西洋で改革しようとしても意味が無い。
イスラムは自分でさらに新しい何かに変わっていかなくてはならない。
しかしそれができないので苦しんでいる。

西洋人は、イスラム世界が近代資本主義や個人主義で救えると思っている。
それは間違いだ。
日本人は西洋人の真似をしてある程度までうまくいったが、例外に過ぎない。

今イスラムは過激主義や原理主義という形で自傷している。
一つの文明がそのピークを迎え、崩壊すると、例えば五胡十六国のような混乱期が来る。
その時代は何百年も続くことがある。
イスラムがイスラムという定型を自ら改良し、イスラムに変わる何かを作り出すにはそれくらいの時間が必要になる。

世界史が発展するパターンはおよそ決まっている。
世界で最も新しい変化は西アジアから生まれる。
今度の変化は、おそらく石油産油国の崩壊という形でまず現れるだろう。
誰もイスラムにとってかわる社会システムなんて想像できない。
それは私たちが現代人だからだ。ほんとうに新しいものなんて予測できない。
でもそれはいずれ生み出されるしかない。
東ローマとペルシャが滅んでイスラムが出てきたときと同じくらいの規模の社会変革が来なくてはならない。

近代とポストモダン

石原千秋『教養としての大学受験国語』というのを読んでいるのだが、この著者によれば世の中の評論というのは、

* 現実を肯定的に受け入れる保守的な評論
* 未来型の理想を掲げる進歩的な評論
* 現実を否定して過去を理想とするウルトラ保守的な評論

の三種類しかないというのだ。
つまり、現実に満足しているのは普通の保守だが、現実に満足しておらず過去を理想とするのがウルトラ保守。
そして大学受験で出てくるのはほとんどの場合「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」なのだそうだ。

近代とは近代西欧文明のことにほかならない。
そして近代のあとに「ポストモダン」が来る。
「ポストモダン」とはまだ確かな形をもっておらず、多様で、どれか一つが正しいというものではない、そう著者は言っているのだが、
彼のいう「未来型の理想を掲げる進歩的な評論」というものが明らかに「ポストモダン」とは相容れない。
今のマスコミがとらわれてしまっている「古い」「近代世界」であって今やまさに実現しようとしている「ポストモダン」ではない。

既得権益を維持しようとするものが保守であるならば、自称「革新」自称「進歩」こそがまさにそうだ。
彼らは「進歩」と自称しながら彼らほど「保守」な連中はいない。
それも「近代」というものの上にあぐらをかいた、この70年ほどの「保守」に過ぎない。
彼らは70年間かかって完全な保守になった。
若者たちはそれに怒っている。

彼に言わせれば私はウルトラ保守の一種かもしれない。
しかし単純な過去へのノスタルジーのことをウルトラ保守と言われても困る。
それこそ「昔はよかった」とか「自然に帰ろう」などということばは、どちらかといえば今の「進歩的教養人」が言う場合が多くはないか?

近代が世界であると思い込んでいる西欧と同じく、自分たちが進歩だと思い込んでいる実質的な保守の連中が、
これから来る「ポストモダン」時代に淘汰されることになる。
彼らほど「過去」を振り返り「未来」が見えてない人はいるまい。

受験生はかわいそうだ。
ただ良い点数を取るためにだけ、彼らの「近代」につきあってやらねばならぬのだから。

古典とポストモダン

ポストモダンって何だってことを少し調べているのだが、
普通は古典、モダン、ポストモダンという三者の対立で言われることが多い。
モダンは常に今このとき、現代であり、モダンはアンチ古典として現れてくる。
モダンはその時代時代の現代において常に古典を否定する。
ところが現代が過ぎて次の時代になると、その一つ前のモダンは古典に組み込まれて、
古典の一部となり、新しいモダンができてくる。

まあこういう考え方自体がアウフヘーベンであって、一つの予定調和であって、輪廻なわけよね。
永遠に同じことが繰り返される。
そしてそこから解脱したいな、永遠にモダンが古典に組み込まれていく過程から解脱したいな、
という考え方が「ポストモダン」だという人がいて、
それはそれでまた一つ新たな「ポストモダン」の定義を与えただけなんじゃないかと思うんだが、
それを「ポストモダン」と呼ぶかどうかはともかくとして、まあ一つの考え方としてありかもしれない。
古典-モダン-ポストモダンという一直線の時間軸なのであれば、ポストモダンはモダンとともに古典に組み込まれざるを得ない。
その時間軸の外側にあるべき理論がポストモダンであると。
その時間軸から外れたところに何があるのか。
作家と鑑賞者の双方向性とか参加型の芸術とかなのか。
矛盾や偶然性を吹くんだ芸術なのか。
それらも一つのソリューションかもしれない。
いずれにしても私にとって関心があるところはそういうことではない。

「なぜいまなお古典を愛好するのか。」「古典が何でそんなに面白いのか。」
「なぜモダンやポストモダンではなく、古典愛好家がこんなに多いのか」という問いは面白い。
普通の人が神社仏閣巡りや百人一首が好きなのは、おそらくそれが単に古いから、昔からあるから、
長い歴史の中で淘汰されて残ったものだから価値がある、そう思うからだろう。
則ち、古典は評価が確定されていて安心感があるけれど、
モダンやポストモダンなどはほんとか嘘かまだはっきりしないから安心して好きになることができない、
というわけなのだ。

ところで私が古典が好きなのは逆説的になるが、モダンやポストモダンに絶望したからだ。
なぜモダンやポストモダン(例えば現代短歌など)がダメなのかといえば、それは現代における古典の解釈が間違っているからだ。
だから本来の古典というものを再発見し再構築しなくてはならない。
我々が普段古典だと思っているものは単にいろんな人の手垢がついただけのものであり、
本来の意味から大きくずれてしまっている。
そしてステレオタイプとなり偶像となって、永遠の過去、永遠の真実のようになってしまっているから、
それを壊すところから始めなくてはならない。
つまり私にとっていわゆる古典もモダンもポストモダンもどれも気に入らないから、
まずは大もとの古典をどうにかしようというのが私のスタンスだ。

繰り返しになるが、現代短歌が何でダメかと言えば明治以降の短歌がダメだからだ。
明治の短歌がダメなのは江戸時代や室町時代の和歌がダメだからである。
ならば鎌倉時代、平安時代までさかのぼるとどうか。
ここらへんまでくるとなるほどこれがこういう風に解釈されてしまったためにこんなことになっているのかってことがおぼろげにわかる。
それで代々おかしなことが積み重なって現代に至っているわけで、それらをすべて矯正してやっと現代短歌を攻撃できる。
歌学というものが藤原定家で一つの完成を見たのはまず間違いない。
それでまあ定家については少し勉強して本も書かせてもらったが、
定家についてはまだ書き足さなくてはならないことが少しある。

消極的なコンサバティブと積極的なコンサバティブがあるだろう。
たとえば保守的な人は毎年お歳暮を贈り、年賀状を書く。
しかしちょっと調べればみんながみんな年賀状を書くなんてのはせいぜい明治までしかさかのぼれない。
そんなものは伝統でもなんでもないからやめてしまえというのが積極的コンサバティブ。ウルトラコンサバティブ。
古いかどうか古典かどうか保守かどうかなんてことはきちんと歴史的に立証されねばならない。
ある時代に照らせば古典と言えるが、別の時代だとそうはいえなかったりする。
ある史観では古典でもその史観自体が間違っていることもある。

そう、まさに、古典とか歴史というものは極めて不安定で不確かなものなのだ。
だから私はわざわざ古典をやっている。誰もがいじくりもてあそべるものに私は興味を持ったりしない。

世襲の効用

社会システムというものが何もなかった中世においては、
政治にしても社会保障にしても芸事にしても、
何か世襲という形にしなくては持続性を持たなかった。
世襲でない、皆に機会が与えられて競争ができる状態のほうが優れているというのは、
社会システムが完備している現代だから言えることなのだ。
天皇家にしても将軍家にしても歌道の家にしても、みな家というものを作って「実体化」
しなくてはならなかった。
「血統」というもので相伝を守って行かねばならなかった。
一旦、「家」「血統」というものが確立したら、それをさらにいろんな伝説で理論武装し、
身内で結束しなくてはならなかった。
個人崇拝が、秘伝の教義がそこに生まれる。

それが、勅撰選者を世襲した定家の運命だったのだ。
定家個人の業績というものももちろんあるのだが、定家がなした一番大きな業績は選者を世襲したということだ。

世襲は今の時代にも案外効用がある。社会システムがいまだに不完全だから、古き良き「血」というものが補うのである。

三種の神器の呪術性

『虚構の歌人』では承久の乱のことを日本最大の黒歴史と書いた。
後堀河天皇が三種の神器の権威だけで即位したのは律令制が否定されて古代の呪術が復活したからだと。
歴史を巻き戻したからだと。

ましかし、改めて思うに、三種の神器はそれまでも政争の具に使われてきた(花山天皇退位の時、安徳天皇入水など)、
のだが、承久の乱で三種の神器が単なる皇位継承の手段として使われたことで、
完全に呪術的価値を失った、とも解釈できる。
また律令制も崩壊した。
承久の乱はまさに、呪術性も律令制も破壊して、武家政権と封建社会をもたらした。
その危うい転換点を北条泰時という天才がうまく連結した。
不連続になったはずの日本の歴史を、完全に溶接してみせたのだ。
泰時があまりにも天才なので私たちは承久の乱も泰時も、長い日本の歴史の中で見落としてしまうくらいだ。
皇位継承というものが北条執権により純化され後世不朽に伝えられた、といえる。
このことによって承久の乱は黒歴史を転じて白歴史にした、と言えなくもない。

泰時に比べて、世の中をぐちゃぐちゃにしてしまった清盛や足利氏やその後の戦国武将のほうが目立っているのは、
歴史の皮肉というものであろう。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。