岩の井

某房総料理の店で千葉の地酒というので銘柄を聞いたら「岩の井」という、その酒を飲んだのだが、私が飲んだのはラインナップの中でも一番安い、山廃仕込辛口、一升瓶で2000円くらいのものであったと思う。

岩瀬酒造のサイトによれば

カルシウムやマグネシウムが多いと養分が多く発酵が旺盛します。硬度の高い水を使用し「山廃酛」で仕込みをすることで旨味のある、濃醇で酸味のしっかりしたお酒になります。

とのことで、確かに、熱燗にしても甘みをほとんど感じず、しかしきちんと味はあって、しかもなんだかピリピリ刺激がするのは酸味であったのかもしれない。

この酒はたぶん特に極端なのだろうが、この酒を飲んでしまうと菊正宗ですら甘く感じてしまう。もう少し高い酒を頼めばもっとまろやかなのだろう、と思った。

それで小林秀雄は毎晩、菊正宗の熱燗を二合しか飲まなかった、

家にいて、客のない日は、夕方六時からが晩酌である。一日二合と決めていて、その二合を李朝の刷目(はけめ)徳利や日本の桃山時代の備前徳利、李朝の井戸盃や桃山時代の黄瀬戸盃など、何百年にもわたって使いこまれてきた古い器でゆっくりと飲む。(小林先生の酒 著者: 池田雅延

というような話をいろんな人にしたのだが、いや、したかったのだが、誰も小林秀雄を知らない。それあなたの友達ですか、と言われた。だからそれ以上話が続かなかった。

小林秀雄って誰かということをどう説明して良いか迷ったのだが、彼は結局、それまで、ものを書くついでに文芸批評もしたというような作家はいたかもしれないが、日本で作品を書かずに批評だけで飯を食っていけた最初の人であり、昭和の終わりくらいまでは生きていた人だから、誰もが知っているものだと思っていたが、今の令和になってみれば、ほとんどの人が最初から知らないか、忘れてしまっているのだ。

岡田斗司夫やひろゆきなんか今の評論家などは元をたどればみんな小林秀雄にたどりつくと思うのだが、その大元の小林秀雄をみんな知らない。いや、ひろゆきはともかく岡田斗司夫を知っているのは一部の人だけだろうか。

日本文化の恣意的な切り取り

ドナルド・キーンに「三島由紀夫」という文があり、その中で彼は三島が自決に際して詠んだ辞世の歌2首を紹介している。

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

キーンは

この二首は彼の最後の短歌であると同時に、昭和十七年(一九四二)、十七歳の吟以来、最初の短歌でもある。

と言う。この十七歳の吟とは「大詔」という詩のことであろう。

やすみししわご大皇(おほきみ)の
おほみことのり宣へりし日
もろ鳥は啼きの音をやめ
もろ草はそよぐすべなみ
あめつちは涙せきあへず
寂としてこゑだにもなし
朗々とみことのりはも
葦はらのみづほ国原
みなぎれり げにみちみてり
時しもや南(みんなみ)の海 言挙(ことあげ)の国の首(かうべ)に、
高照らす日の御子の国 流涕の剣は落ちぬ
時しもや声放たれぬ 敵共(あだどち)の船人
玉藻刈る沖にしづめぬ、
かちどきは今しとよめど
吉事(よごと)はもいよゝ重(し)けども
むらぎものわれのこころは いかにせむ
よろこびの声もえあげずたゞ涙すも

祝詞かなにかのように、古語で、大和言葉だけで詠まれているようにみせて実は「寂として」「朗々と」「流涕」は漢語である。

三島が割腹自殺したのは11月25日である。しかし「散るこそ花」とは桜であろう。季節があってない。またキーンによれば「今日の初霜」と詠んだのは3ヶ月前の7月であったらしい。要するに三島はその場で歌を詠んだのではなくて、かなり久しい以前からこれらの辞世の句を準備していた、ということになろう。長い時間をかけて巧んだ結果がこれだ、ということだ。

三島はたぶん居合刀のことを言っているのだと思うが、私は、そんな鞘鳴りするような刀を見たことがない。居合の演武で、刀が鞘とぶつかってカタカタ音がするなどというぶざまなことはほぼあり得ないと思うのだ。けなしているというより、違和感を感じるというか、何かぎこちない、ちぐはぐな、作り事めいたものをこれらの歌から感じるのである(おそらくそれは三島作品すべてに言えることだろう)。

歌の嗜みがない人が辞世の歌だけはあらかじめ用意しておく。さいとうたかをの『鬼平犯科帳』には磔になる罪人が辞世を代詠してもらう話があるけれども、そういうことはあっても良いと思う。その上で敢えて言わせてもらうが、和歌というものは、無意識のうちにその場ですっと出てきたものが良いのである。巧んで時間をかけた作り事はすぐに見破られる。異臭がするのだ。作為の後が残る歌はダメだ。そのため歌人はふだんから歌を詠みならして、口慣らしをして、自然と歌が出てくるようにしておく。そうしていくつもいくつも歌を詠んでいって詠草がたまっていって、その中にたまたま良い歌が混じる。歌とはそうしたもののはずだ。

三島はおそらく居合を習ったのだろう。腰に刀をさすようになった。試し斬りもしたであろう。鞘が鳴るたびに(おそらくそれは幻聴であろうが)、自決を、あるいは蹶起をうながされているような気持ちになる。その誘惑に、その衝動に、もう何年も耐えてきた。そしてついに今日自決するのだ。今朝、目の前には白い霜がおりている。もちろん腹を切るのも日本刀。介錯で首を落とすのも日本刀。私には戯画としか思えない。

三島由紀夫という人は歌人ではなかった、彼が生涯で詠んだわずか2首の歌、それも辞世の歌をドナルド・キーンがわざわざ取り上げるということに私は嫌な気分がしてならない。世の中にはいろんな歌人がいていろんな歌がある。ドナルド・キーンは日本文学の研究者だ。その彼がなぜこんな特殊で奇妙な歌をわざわざ論じなくてはならないのか。たまたま目に付いたからか。たまたま気になったからか。違うだろう。ある種の悪意、あざとさ、とでもいえそうなものを私は感じる。そこに私は恣意的な切り取りを感じざるを得ないのだ。

この世に存在したすべての日本人のうち、三島由紀夫はおそらく世界で最も有名な日本人であろう。

三島由紀夫はネイティブ並に英語が話せたのでそりゃあ外国人には受けが良かったであったろう。しかもハラキリ自殺までしたのだ。それがキーンの執筆動機か?

キーンは石川啄木についても書いている。キーンが歌人について一番まとまった文章を書いているのは啄木だ。なぜ啄木だったのだろう。啄木は日本を代表する歌人であろうか。最も偉大な歌人であろうか?

啄木は大和歌の破壊者であった。彼は最初まともな古語で和歌を詠んでいたのだが、途中から疑似文語とでもいおうか、へんてこりんな言葉で歌を詠むようになった。彼がきっぱりと因習を離れ、すなおに現代口語で歌を詠むならそれはそれでよかったのだが、大和言葉を変に改造した、気持ちの悪い人工言語を発明した。それは大和言葉をゆがめ、その血に毒を流し、死に至らしめる作用をする。啄木は意図的に大和言葉を殺そうとしてああいう歌を詠んだし、だからこそ啄木は名声を博したのである。おそらくドナルド・キーンはそのことを十分に察知していた。啄木という腹黒い男のことを熟知していたからこそ、ほかの歌人はほっといて、この明治の文明開化期に出てきた旧時代の破壊者啄木を取り上げたのだ。啄木だけを取り上げるということは啄木と対極にいる保守的な歌人らを暗に否定しているのだ。キーンもまた啄木の一味だということだ。

世間ではメディアの切り取りということがしばしば問題視されるが、ドナルド・キーンが、さまざまな日本の文物を見渡した上で、三島由紀夫とか、足利義政とか、石川啄木のような、尋常ではない部分を敢えてピックアップして蒸し返し、さも普遍的な日本文化であるかのように紹介することは、日本文化というものを奇形たらしむることになりはしないか。

東京

小林秀雄に、昭和35年に書いた「東京」という短文があるが、そこに

独酌に好都合な飲み屋は、戦前までは、東京の何処にでもあつたのだ。料理も出ないし、女もゐないが、酒だけは滅法いい。さういふところには、期せずして独酌組が集まるものらしく、めいめい徳利をかかへて空想したり、考へ事をしたりしてゐた。ああいふ安くて極めて高級な飲み屋が広い東京のことだ、まだ一軒くらゐありはしないか、と時々思ふ。

などと書かれていて、料理が出ないというのはつまり、乾き物くらいは出たのだろうし、女はいないと言っても酌婦の婆さんくらいはいたのだろう。つまり今で言う、しゃれた小料理屋というのではない、普通の居酒屋のことを言うのだろう。

戦前の「滅法いい」「極めて高級な酒」というのがどういうものだったか。まったく見当もつかない。ただ酒を飲みながら一人で考え事をしているというのも、今の雰囲気とはだいぶ違うように思える。

似たようなことを書いている記事をみつけた。もひとつ。菊正宗のようなものであろうか。

晩酌の酒は、ふだんは灘の「菊正宗」だったが、これも、「菊正宗」であればよいというものではなかった。今では造り酒屋の蔵から町の酒屋の売場まで、輸送や保管にあたっての品質管理もすこしはマメに行なわれるようになったらしいが、先生がお元気だった昭和四十年代、五十年代はその方面の意識そのものが低かった。

先生は、家で飲む「菊正宗」は、そのあたりのことをよく知っている酒屋から買っていた。

なるほど、菊正宗の中でも上等で、しかもよく管理されたものを好んでいたということか。

菊正宗は確かに甘ったるくなく、燗に適している。温めるとそれでもそれなりに甘くはなるが、味けない端麗辛口などよりは良い。

実朝

小林秀雄はともかくたくさんものを書いているから、それらに一通り目を通さぬことには、小林秀雄について語ることはできまい。しかしながら、彼が歌人について書いたのはどうやら西行と実朝の二人だけらしい。昭和17年から18年にかけて、つまり戦争の真っ最中に。私は和歌についてはそれなりに学んできたと思っているので和歌について彼が語っている部分には多少口出ししても差し支えあるまい(和歌についてはもちろん彼は宣長のことも多く語っている)。

この西行と実朝の二人について書いたのは、芭蕉が弟子に「中頃の歌人は誰なるや」と問われて言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたからであるらしい。実に不純な動機である。まず芭蕉がほんとうにそういうことを言ったかどうか。小林秀雄は話のネタにするためにはどんな怪しげな伝説でも採り入れて勝手に話を作る。実際、

文学には文学の真相といふものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もつと深いところに行かうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。

などと言い訳している。なるほど小説などのフィクションならばそれでよかろうが、評論はどうか。時代小説なら?歴史小説なら?小林秀雄はその線引きを意図的にごまかし曖昧にして話を盛ろうとしているようにもみえる。と思えば別の所では

僕には、実朝が、そんな役者とはどうも考へられない。「吾妻鏡」編纂者達の、実朝の横死に禁忌の歌を手向けんとした心根を思つてみる方が自然であり、又、この歌の裏に、幕府問注所の役人達の無量の想ひを想像してみるのは更に興味ある事である。

などとしれっと書いていたりする。信じてみたり疑ってみたり変幻自在だ。

で、「西行」に比べれば「実朝」は割としっかり書かれた文章であって、やはり、小林秀雄はある程度まで和歌のことはわかっている人である、と思われる。

出でて去なば 主無き宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

が贋作なのは明白だが、私はかつて

もののふの 矢なみつくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

も贋作なのではなかろうか、と疑っていた。実朝がこんないかにも武士らしい、武張った歌を詠むとは思えなかったからだ。正岡子規もこの歌をべた褒めしていてますます怪しい。しかしいろいろ調べてみるに、これはそんな、いわゆる武家の棟梁が冬の那須高原で巻き狩りなぞをしている(父頼朝が富士の裾野でやったような)ところを目の当たりにして詠んだ歌ではなくて、単に人の歌を本歌取りにしただけの、宮廷趣味的な、或いは習作的なものであったのだろう、ということがわかってくる。おそらくこれはただ単に定家の

大空に たがぬく玉の 緒絶えして あられ乱るる 野辺の笹原

を多少アレンジしたものであったに違いなく、また、

時雨降る 大荒木野の 小篠原 濡れはひづとも 色に出でめや

わが恋は あはでふる野の 小篠原 いくよまでとか 霜の置くらむ

雪深み 深山の嵐 さえさえて 生駒の岳に あられふるらし

笹の葉の 深山もさやに あられ降り 寒き霜夜を ひとりかもねむ

笹の葉に あられさやぎて 深山辺の 峰のこがらし しきりて吹きぬ

などといったよく似た歌もある。あられの歌をあれこれ詠んでいたときにふと弓場で矢を射る武者の姿が目に入り、歌に採り入れてみただけだったかもしれない。まあしかし、いきさつはどうであれ、よく出来た歌だと思うし、実朝の真作であるとすればすごいことだと思う。

思うに小林秀雄は歌人について何かおもしろおかしく書いてほしいという依頼があって西行と実朝を取り上げて論じてみただけだと思う。あまり深読みしても仕方ないし、それほど歌人や和歌に興味があったとも思えない。彼は彼の書きたいようにものを書けば良いのであってそれは彼の自由であってそれに対してあれこれ言っても仕方ないのだけれど、世間一般の西行像、実朝像が、小林秀雄の言っていることとにたりよったりの焼き直しばかりなのは腹立たしい。もっと全然違う角度からいくらでも眺められるのに。ウィキペディアにせよ、ブログにせよ、AIにせよ、小林秀雄の個人的感想をそのまんま再生産している。

西行再説2

鳥羽院に出家のいとま申すとてよめる

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

この歌は『山家集』には採られていない。

西行こと佐藤義清は北面の武士であった。鳥羽離宮北の詰め所に彼は伺候していたわけだが、要するに御所の裏口、勝手口であって、彼がその職を辞するとき鳥羽院にこのような歌を奉っていとまごいとしたというのだが、ほとんどあり得ないだろう。謁見の機会すらほぼありようがなかったと思う。まして顔や名、詠んだ歌など覚えられてもいるまい。そういう関係で、こういう無礼な物言いの歌を院に詠むはずがない。さらに鳥羽院はまったく歌を残さない人だった。歌を詠まないか、歌に関心がない人だったはずだ。その鳥羽院にわざわざこんな過激な内容の歌を西行が詠んで出家した。後足で砂をかけるような勢いで。などということはどうみても創作、おそらく山伏か僧兵のごとき者たちが口ずさんでいたような当時の歌謡ではなかったか。

この歌に対して小林秀雄は

決して世に追いつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか厭世とかいふ曖昧な概念に惑はされなければ、一切がはつきりしてゐるのである。自ら進んで世に反いた廿三歳の異常な青年武士の、世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向つて開かれ、来るべきものに挑んでゐるのであつて、歌のすがたなぞにかまつてゐる余裕はないのである。

自分の運命に関する強い或は強過ぎる予感を持つてゐたのである。

などと言っている。なるほど上に掲げた歌は確かに当時抑圧され鬱屈していた若侍たちの荒ぶる心理を代弁したものに違いない。しかしそれを西行本人が詠んだかどうかということは別問題だ。

西行の真作とみておよそ間違いないと思われる歌を眺めてみて、この歌を見るといかにも異様で異常である。

小林秀雄は西行が出家するときには何かしら激情に駆られてこのような異常で苛烈な表現をとったのだと思ったのかもしれない。だがそれは非常に無理がある。平安朝末期の歌人とはいかような人種であるか、ということがわかってないのではないか。

西行とて当時の歌人の一人であった。ふだん穏やかな、どちらかといえば感傷的で耽美的な歌ばかり詠んでいる人がいきなりこんな歌を詠む、というような事例はない。ふだんから変な歌を詠む人は変な歌しか詠まないし、平凡な歌ばかり詠む人は平凡な歌しか詠まない。

西行のごくありきたりな、おもしろくもおかしくもない歌をたくさん見てみるとよい。そういう歌は他人がわざと西行の名をかたって詠んだりしないから、西行本人の歌である可能性が高い。逆に奇抜でなんだかおもしろそうな歌は、他人が西行の名で詠んだのではないかと疑ってみなくてはなるまい。『御裳濯河歌合』『宮河歌合』『山家心中集』などは西行本人の自選集とみなしてほぼよかろうと思うから、そうしたところを中心に見るとよい。『山家集』もまあ信じてよかろう。『異本 山家集(西行上人集)』には頓阿の跋があるが、西行の時代から離れすぎていて信じがたい。拾遺や追加などはほぼ信用できないと言って良いと思う。

そうしてだいたい西行が詠んだとして間違いなさそうな歌ばかりを見ていけばその全体像がわかってくるはずだ。そうしてたとえば「花の歌あまた詠みける中に」などという連作の中に出てくる

おしなべて 花の盛りと なりにけり 山のはごとに かかる白雲

などはどう考えても西行の歌に違いあるまい、と思えてくる(『御裳濯河歌合』にも出てくるから真作に違いないのだが)。こうした歌はどれも一見平凡だが、テンプレがなく、簡単に詠もうと思っても詠めない歌ばかりであることがわかる。言葉も平易で無理がなく、調べも整っている。癖が無くひっかかるところがないので見過ごしてしまいがちだ。ふだん和歌に親しんでいない人には単なる凡作にしか見えないだろう。それが西行の歌の特徴であって、逆に何か違和感(荒さとか雑味、と言っても良い)のあるものは偽物である可能性が高い。

風になびく 富士の煙の 空にきえて 行方も知らぬ 我が思ひかな

西行は京極派のような、字余りの多い歌人だと言われているのだが、こんなふうに露骨に字余りのある歌を西行が詠むとはとても思えない。京極派の歌人が西行の歌を偽造したのではなかろうか、とさえ思える。

この歌に対して小林秀雄は

これを、自讃歌の第一に推したといふ伝説を、僕は信じる。

この歌が通俗と映る歌人の心は汚れてゐる。

などと言っているのだが、彼はどうしてこの歌をそれほどまでに気に入ったのだろうか。私にはまったく理解できない。私はこの歌を通俗とは思わない。ひどく不細工で、西行に全然似つかわしくないと思えるのである。こういうひどくいびつ(というかぞんざい)な歌は京極為兼以降に出てきたものであって、西行の時代にはまったく許容されていなかった。西行だから敢えてそれをしたのだという人もいるかもしれないが、私にはあり得ないと思う。

どうも西行という人はとんでもなく誤解されている。誰も西行のことを知らないし、まともに解説もできていない。

西行本人にまとわりついている、西行以外のなにか。西行はあまりにも有名で、あまりにも人気が高くて、その割に身分が低く、歌の真贋を確かめるすべがない。そこが利用されたのだ。もっと具体的に、ありていにいえば、当時の仏教徒たち、平家物語なんぞを創作した坊主たちによって好き勝手に脚色されているのだろうと思われる(ほとんど同様のことが太田道灌の歌にも言える)。それを今日の骨董趣味の連中がやはり自分たちの好き勝手に利用してきたのだ。西行、道灌ばかりではない。定家しかり。百人一首しかり。何もかも今一度きれいに洗濯してみてはどうか。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

この歌はもともと『詞花集』に採られた詠み人知らず、題知らずの歌であったが、『西行物語』に採られたために西行の歌ということになったらしい。「惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と口ぶりが非常に良く似ている。桑原博史編『西行全歌集 』新典社には「別本山家集にはあって筑波大本には無い歌」の中に載る。要するに鎌倉時代になってから、適当に『詞花集』などからそれっぽい歌をみつくろって、「文武に秀でた青年であったが,25歳のとき友人の死を身近に見て無常の思いを強め,袂にすがる娘を縁側から蹴落として西山に走り,出家する。」などというドラマチックな物語をでっち上げたのであろう。実に馬鹿げたことだ。そして小林秀雄もかなりそのイメージに引きずられているように感じられる。というより、わざわざ西行が詠んだかどうだか疑わしい歌ばかりピックアップして虚構の西行像を造り上げようとしているようにも見える。

繰り返しになるがその当時そのように世の中に絶望し、やけくそになって出家した若者は実際に数多くいたのであろう。だからこそそんな物語が作られて世に流布した。しかしその主人公が西行であった可能性は低いと私は思う。

日本文学とか日本史とか、ちょっと冷静に客観的に考えてみれば、何もかも嘘っぱちだらけなんだが、みんななんでこの現状に耐えられるんだろう。そうか、みんな真実よりも伝説のほうが好きなんだな。リアリズムよりフィクションやファンタジーのほうが楽しいんだ。誰かにだまされているほうが幸せになれるんだ。そうに違いない。当時西行は身分が低すぎたから詞花集には詠み人知らずで採られたのだと。なるほど無名の武士が出家して詠んだ歌ではあったかもしれないが、それが西行とは限るまい。

小説はAIで書けば良い

小説を書きたい人はまずテーマと世界観を決めて、それから起承転結を考えましょうとか。登場人物の設定をしましょうとか。初心者でもわかる小説の書き方とか。ユーチューブ見ているとそういう動画がよくあって、それは実際に小説家になれた人が作ってるらしいんだが、世間では逆で、小説を書いてみたら良く売れるのでもっと書けと言われて書いている人しかいないと思うんだよね?

小説の書き方がわからないとか、どんな小説を書けば良いかわからないという人が、どうして小説を書きたいのかがわからない。人に読まれる小説を書きたいんならAIに書いてもらえばいいじゃんと思う。

いわゆるラノベなんかはみんなAIが書けば良いんじゃないか(ラノベなんてどれを読んでも同じじゃんと思っている。特になろう系の、限りなく二次創作的なものは。仮に二次創作ではなかったとしても続編はそうなる)。ラブレターをAIに書かせるという話も最近よくみる。一般大衆が読みたがるような文章とか動画なんてのはAIのほうが得意だろう。それっぽい受けのよさそうなものを集めてきて適当に見繕って幕の内弁当みたいにまとめたものがラノベだろ。樋口一葉だって恋文の代筆をしていたし、下手に素人が恋文書くよりはプロのライターに書いてもらったほうが効果があるだろ。自分の心はまったくこもってなくてもさ。

沢庵にしろ梅干しにしろスーパーには、いろんな調味料加えて沢庵っぽい、梅干しっぽい味にした何か、しか売られてないわけだから、それでなんら問題無いという人は、AIが書いたラノベ読んでりゃ良いじゃん、って話だよな。

小説を書くということの問題の本質はそこには無いと思ってるんだよね。まず自分が書きたいものを書く。出発点はそこであって、書きたいものが無いとか書けない人ってのは、出発点自体が存在してないんだからAIに書いてもらえばいいじゃんって思うよ。

次にあるのはたぶんマーケティング。それから、自分が書きたいものと人が読みたいものとのすりあわせ。それらは自分だけではどうにもできないから、人に手伝ってもらったり売り込んだり、宣伝したりしなきゃならんわけだよね。

或いはテクニック。出だしとか。文体とか。そういうものは素直に勉強するべきだとは思う。売れ筋というかキャッチーなセオリーなんかは事例研究から学ぶしかないよね。

もちろん自己満足で、書きたいものを勝手に書いてそれがたまたま人が読みたい話になる人もいるだろうけど、自分がそういう人である可能性は非常に低いよね。だからそれなりに努力はしなきゃいかん。自分を曲げる必要もあるかもしらん。

しかし自分が書きたいものがまだないって人は書きたいものが決まるまで人の作品を読みあさるほうが良いと思う。

書きたいことがあるのにうまく書けない、という人もやっぱりAIを使えば解決するんじゃないのかな。AIに書いてもらった文章では気に入らないというのだとこまるがそのうちもっと自分の世界観をそのまますっと小説にしてくれるAIが出てくるかもしれないからそれまで待てば良いのじゃないか。ほんとに書きたいものがあるならそれで解決する。でもそんなAIが出てきてわかるのはやっぱり自分には書きたいものなんて最初からなかったんだ、ってことになるかもしれんね。自分には書きたいものがあるんだが実はそんなものは最初からなかった。自意識とか無意識とか阿頼耶識とか唯識みたいなものが存在していると思ってたけど実はない。ましかし、AIってなんであんな嘘でたらめな答えを出してくるかわかってないわけだからアレも唯識と言えば唯識だよね?

私は最初からそういう、ウィキペディアを切り貼りして改変してゴーストライターに手伝ってもらえば書けちゃうようなものを書きたいとはまったく思ってない。私にしか書けないものを書くのじゃなければ人生の無駄遣いだと思っている。人にも書けるもの、人に頼めば書いてくれるようなもの。AIにも書けるようなもの。そんなものをいくら書いて売れっ子になったところで、死んでしまえばそれまでじゃないか。そんなことして何が面白いのかと思う。

ゲームを作るのも今はゲームエンジンというものがあるからアセットは適当に集めてきて、自分で作れるアセットは自分で作って、それらを組み立てて作れば良い。生成AIが出てきて小説もやっとそういうアセットの組み立てでできるようになってきた、とも言えるかもしれんね。まあしかし私はAIは使わないけどね。

自分の文章をAIに直してもらったことはあるが、そうすると自分がけっこう、わざと省略したりわかりにくく書いたりして、メリハリを付けていることがわかるよね。前景と背景を違う描きかたをしたり、つまり一部は細かく描いて一部はわざと描かなかったりしてる。遠近感というか被写界深度みたいなもの。それを全部にピントがあったような文章に直されちゃう。ただ流暢なだけで無個性な文にされる。文体も微妙にブレがあるのはわざと無意識にそうしている(そうなっている)んだがそれを全部直して統一されちゃう。その方が読みやすいのかもしれんが、私自身はそういう文章を読みたくも書きたくもない。私はそういう意味では読みやすい文章なんかわざわざ書きたくないし、読みたくもない。

そういう文章の緩急というか揺らぎというか、息使いというか、なんだろうね、翻訳してしまえば失われてしまうようなディテイル、「英語で書こうが日本語で書こうが同じ」ではないところまで表現したいんなら、AIは使えないだろ?それを学習させるには私そのものを完全にAIに学習させるしかないわけだから。

西行再説

西行の歌西行などを読み返しているのだが、

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

などはおそらく後世、西行の名をかたった偽作であろう。西行は民衆に仏道を説くような人ではなかったし、こういう露骨に抹香臭くお説教臭い歌を詠む人ではなかったはずだ。西行は悟りを開いて魂を救済されたい、現世は嫌だ、死後の世界で救われたい、などと思っていたのではないはずだ。俗世に未練たらたらな人だったはずだ。たとえば

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

などのような歌こそが西行の歌であるようにおもわれる。

「俗世を捨てて出家する人は、自分を捨てたのではない。後の世で救われるのであるからむしろ自分を拾ったのである。自分を助けたのである。現世で世を捨てぬ人は、あの世で自分を捨てているのである」とか。「この世は惜しむほどのものだろうか。この世を捨てて、出家して、身を捨てればこそ自分を助けることになるのだ」とか。こうした厭世観というか現世否定とか浄土思想とかあるいはあからさまな布教活動というものは西行には似つかわしくない(西行という名前には明確な浄土思想を感じるけれども)。だがたとえば兼好ならこんなふうな歌を喜々として詠むに違いない。

日本仏教は聖徳太子、役行者、弘法大師の頃から有名人を使ってやたらと奇跡や伝説をでっち上げて布教活動に利用してきた。キリスト教の聖遺物や聖者と似たようなものか。

小林秀雄はもしかすると、出家した直後の西行は俗世に対する執着心が捨てきれずに、それゆえ「馬鹿正直な拙い歌」を詠んだりもしたのだが、修行して悟りを開いてからは達観した歌を詠むようになったのだ、世の無常を知り悟りを開いたので、はかなく散る花や空を流れる雲の美しさを詠めるようになったとでも思ったのだろうか。

そうではあるまい。西行は出家する前も、出家した直後も、老いて死ぬ直前も、女々しい男であった。あくまでも人間的な、迷いを捨てきれぬ人だった。私はそう思う。そうでない歌は、西行の名を借りて仏教を広めようとする偽者が詠んだ歌であると思う。果たしてどちらが真実であろうか、悟ろうとして悟り得ない愚かな人間と、行いすまして悟りを目指し、人をも悟りへ導こうとする人と。他人の名声を盗用してまで己の教えを広めてもらいたいとは仏陀も思ってはいるまい。

万博の思い出など

浅草。まあだいたい見るべきものは見終えて、しばらく休館してた樋口一葉記念館にも行った。一葉の直筆の手紙や原稿などがすごいなと思った。あんな原稿を昔の人は読んで活字にしていたのだ。もっと悪筆な人もいたに違いない。台東区立図書館にある池波正太郎記念文庫で見た、池波正太郎の原稿であったか、最近見たやつで、ほとんど判読できなさそうなものがあった。あんなの読まされる編集者はたまったもんじゃないなと思う(一葉の文字は達筆すぎて私には古文書解読と同じ。決して悪筆ではない)。

その後、三ノ輪、町屋、熊野前あたりまで、荒川線に乗りながら散歩したんだが、この辺りには禁煙の飲み屋というものはいまだ存在しないらしい。ラーメン屋や焼き肉屋には禁煙もあるが居酒屋はそもそも禁煙か喫煙可能かの張り紙すらない。こういうのは東武野田線沿線でもみた。

上野や浅草、北千住は少なくとも禁煙か喫煙可能かの張り紙くらいはある(中には禁煙と喫煙可能両方貼ってるふざけた店もある)。つまり警察か役所か保健所か何かが見回りにきて指導しているのだろう。浅草なんかはいち早く、自転車で来た客には酒は飲ませない、もしくは自転車で来るなという張り紙が貼られたが、これもやはり警察が一番に浅草に来て指導しているからだろう。警察だってひまじゃない。町屋あたりの個人経営の店にはいちいち小言を言いに行くことはないのだろう。曳舟や東向島あたりのほうがまだちゃんとしている。

そうやって最近はあちこち飲み歩いていたがいいかげん飲み疲れてきた。夕方とくにすることもないので東武ストアで適当につまみを買って家飲みすれば午前三時には目が覚める。皿洗ったり洗濯物かたづけたり。あれこれやって七時頃にはたいていやることはなくなっている。

まあこんなもんでいいんだろうと思う。何もやることがないってことは良いことだ。そう思えば良い。

土曜日はダメだ。どこもかしこもなんかざわさいている。隣人がベランダでタバコ吸ったり廊下で立ち話していたり。週末なんてものはどこにいこうが居心地が悪い。週末こそ一人で会社にいたほうがましかもしれない。そして平日自宅やアジトでのんびり過ごす。

ユーチューブは毎日見てはダメだな。一週間に一度くらい新作にざっと目を通すくらいでちょうど良い。作業用にだらだら流すならクラシックくらいに限定するのが良い。

両親が二人で、子供を連れずに大阪万博に行ったのが悔しかったのを覚えている。まだ五才だったはずだ。そのお返しのつもりか沖縄海洋博には連れて行ってもらえた。ずっと砂浜で遊んでた。二日目は予定変更してバスツアーになった。私は不満だったが大人たちはみんな喜んでいた。なんとかという鍾乳洞に連れられていき、それなりに面白かった。道ばたでサトウキビを売っていて食べさせてもらえなかったのを今でも恨んでいる。別にまずくてもよかったのだ。どんなものかが知りたかったのだ。しかし買ってもらっていたらもうとっくにそのときのことは忘れてしまっていただろう。買ってもらえなかったからいまだに根にもって覚えているのだ。しかし今となってはそれも父親との貴重な思い出の一つだと言える。

大阪万博跡には大学受験の時に初めて遊びに行った。太陽の塔はあったがほとんど芝生の更地になっていた。ビデオテークというものがわずかに残っていた。ローマ字で Videotēku と表記されていて馬鹿にされた気になった。

フランス語の Bibliotheque から来ているのだろう。もとはギリシャ語で βιβλιοθήκη。

せめて Videotheque もしくは Bideotēku とすべきではないかなどと思った。その展示内容も今から見れば全然面白くもなんともない。1970年の大阪万博のパビリオンなんてものは今からみればただの張りぼての見世物小屋みたいなもんだろう。

愛知万博には取材に行った。サツキとメイの家以外にはまったく興味がなかった。あんなところにわざわざ人混みの中出掛けていく必要は無いと思った。もう20年も前のことになる。つまり私は当時40才だったということだ。

今の大阪万博。もちろん私には興味がない。しかしながら子供には面白いのかもしれない。

子供の頃行った熊本にある三井グリーンランドというところは面白かった。今行けばたぶん大したことはないのだろう。多摩ニュータウンのキティランドや、よみうりランドには行ったことがある。まあ、どうってことはなかった。ハウステンボスには2度行ったことがある。まあ、1度目はそれなりに楽しかったかな。ロサンゼルスのユニバーサルスタジオには行ったことがある。まあまあ面白かった。ディズニーランドには絶対行かないことに決めている。ディズニーが嫌いだからだ。

浅草ホッピー通りのたぬき、昭和46年創業とあるから、今年で54年、女将さんは創業当時からここをやっているというのだから、70才は当然超えているのだろう。この店平日は15:00からしか開けない。15:00きっかりに開くというわけではなく、17:00過ぎないと開かないこともある。昼飲みしたい客(私のような)には困るがそういう店なのだから仕方ない。実際平日は周りの店は先に開店していて、道に呼びこみも立ってないから平日の早い時間帯はガラガラだ。だが私にはそれが心地よい。google maps のレビューには女将さんが怖いとか注文を間違えるとかいろいろ悪く書かれているがそりゃこの店がめちゃめちゃ混んでるときに来るからだろう。食べ物も飲み物も高いというが、安い飲み屋なら上野に行けばいくらでもある。ここ、たぬきは唯一無二の店だと私は思う。この店はホッピー通り界隈でもっとも古い店、というわけではないらしい。そりゃそうでこの通りには昭和46年頃にはすでにもつ煮や牛すじの店がたくさん建ち並んでいたのだろう。

このピンク電話というのだろうか(正式名称は特殊簡易公衆電話というらしい)。今ではたぶんNTTはこんな古い型の公衆電話をできるだけ運用したくないのに違いない。だからアレも使えません、コレも使えませんと張り紙がしてあるけれども、店主の女将さんは、いやまだ普通に使える、と言っている。ためしに使ってみようかと思ったけど使い道がないのでとりあえず今回はやめておいた。

ほかにも君塚食堂に行ったりする。ここは17:00に閉まるので、15:00くらいから飲みたいときには良い。もちろん土日は混んでいる。あとはほていちゃんくらいか。いずれも禁煙なのが良い。

ついでだが、上野公園の東照宮第一売店。一度は行こうかと思っていたが、まあ普通。

阿部一族

武士にとって名前を残して死ぬことがすべてである。

私もなぜかいつの間にかその考え方に感化されていたようだ。森鴎外は明らかに武士であるが夏目金之助こと夏目漱石はその趣味や嗜好はともかくとして、まったく武士ではなかった。

森鴎外がなぜあれほどまで阿部一族で、いろんな人をサーベイして事細かに記録したかといえば、鴎外自身が武士であったからだ。彼は小説が書きたかったのではない。自分の小説が後世まで残る確証をすでに得ていた鴎外は、自分の小説に彼らの名前を記載し、彼らを永遠に人の記憶に残しておきたかったのだ。彼らを顕彰したかったのだ。

森鴎外にとって面白い小説を書くことなどなにほどのことでもなかった。おそらく鴎外は自分が売れっ子作家になろうという気持ちもなかった。彼はなすべきことは十分にやりすぎるほどなし終えていたから、さらに小説家として名声を得たいとおもっていたかどうか。

彼にとって、歴史に名を残すという仕事はもうし終えていた。だから、人に読まれ喜ばれる小説を書こうなどという気持ちはなかった。ただ阿部一族の人々を未来永劫、日本人の記憶にとどめる。そのためにだけあの小説書いたのだ。

いつもの米

久しぶりに浅草のアジトに戻ってきた。

例によって吉原ビッグエーに朝の買い出し。米が安くなってないかな、ベトナム米でも入ってないかなと期待したが、いつものお米あかふじしかない。5kgで値札は3980円と書かれていて、しょうがないなそろそろ買うかと買ってみるとレシートの金額は3480円となっている。たぶん値札を書き換えるのを忘れただけだろう。レジの店員は忙しそうだったのでそのまま帰った。

ここの、いつものお米とかちょうど良い牛乳とか買っておけば特に問題なし。

米が不足して値上がりしているというけれど、では関税を下げてアメリカからカリフォルニア米を輸入して、あるいはベトナム米を輸入して、安く流通させようという考えはまったくないらしい。現代のように、貿易が正常に行われていれば、日本でいくら作物が不作でも飢饉になるということはありえない。ただ単に米の減反政策と、在庫と、買い占めと、流通の問題で米が高くなったり安くなったりしているだけで、米が食えなければ麦を食えば良いという状況で、いろんな法令と、いろんな圧力団体があって、国が米の価格を強制的に変動させるなんてことはできないのだろう。

思うに米なんてものはブレンド米で十分だと思う。なぜわざわざ産地や品種にこだわるのだろうか。昔はそうする必要があったかもしれない、超高級な米ならそうすべきかもしれない。しかし現代普通に食える米を食べるだけなら、上手い具合にブレンドした米を食べれば十分ではないか。そんなに味の違いがあるだろうか。