小田原城

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小田原城はきれいなんだが、木が天守閣を隠しているのはよくないと思うんだ。城というモノは威厳を示すものだから、東海道筋を通ってきた旅人たちにも、堀と、櫓と、天守閣が見えるようになっていたと思う。決して木で隠すなんてもったいないことはしなかったはず。


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本丸のすぐ下、というか、本丸の一部に図書館と文化館があるのだが、それはまあ良いとして、そこまで電信柱と電線が通っているのはいかがなものか。こういう現代建築こそ木で隠すなどの配慮をしてほしいものだ。特に電線は地中に埋めるとか。そのくらいの配慮がなぜできないのかと思う。城は堀の外から眺めた姿も大事だと思う。特に櫓や橋が壕に逆さまに移り込んでるのが絵的に極めて貴重なのだ。


迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、 江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、 桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、 品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。 品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、 ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。 ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。 直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。 ちょうど慶応大学の辺りである。 ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。 この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。 おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。 大名行列とか。 しかし、農工商は右の道を通る。 東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。 ここから中原街道に分岐する。 しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。 そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。 第二京浜とはなんぞや。 戦前の昭和に開発された国道らしい。 第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。 これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。 よくみんな迷わず道を走れるものである。

バールのようなもの

思うに、一般市民が「バール」を所持している可能性は非常に低い。しかし、金属製の細長い凶器を一様に「バールのようなもの」とマスコミが表現するのは、バールがスケープゴートとして使われているからに過ぎない、と言える。

一般市民が持っていそうなものといえば、まず考えられるのは金属バット。つぎにゴルフクラブ、くらいしか思いつかない。しかし、凶器が特定されればともかく、「金属バットのようなもの」とか「ゴルフクラブのようなもの」と報道されれば、当然スポーツ用品メイカーから苦情がくるだろう。それでいつも「バールのようなもの」なのだろう。

大塩平八郎

パブーで大塩平八郎 というのを公開した。 これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、 私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。 というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。 それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。 新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、 ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。 そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。 「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。 たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。 歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、 やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。 こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。 ネットでより目立つためだ。 たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。 効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、 やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。 そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。 たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。 女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、 wordからコピペするだけで良いことがわかった。 そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

言語の起源

やはり人間の起源はアフリカ? 世界のすべての言語は石器時代のアフリカ言語から生まれた。 アフリカの言語が一番音素が多く、そこから遠ざかるにつれて音素が減っていく、という傾向がある。

思うに、人類が、最初に言語を獲得したときには、単語というものはなくて、音素だけがあったのだろう。一つの音素が一つの概念を表していた。だから、できるだけたくさんの音素が必要だったのではないか。

そのうち、音素を組み合わせて単語を作るようになると、音素はそれほどたくさん必要ではなくなった。さらに文法ができて、より複雑な表現が可能になった、と考えられるのではなかろうか。

仮に、親から全く言葉を習わない人間の集団があったとしよう。たとえばオオカミに育てられた子供が数十人程度居たとする。それを出発点としてみよう。彼らは身振りや手振り、口から出す音などで意志を伝えようとするだろう。口から出す音、つまり声だが、最初は単語という概念がないから、声の一つ一つに、それぞれの意味を持たせたのに違いない。世代交代していくうちに、その声、つまり音素のレパートリーは増えていくに違いない。しかし千くらいまで音素が増えるともうそれ以上は増やせない。しかし、概念というものはそれよりも多くなっていく。そこで複数の音素を組み合わせた単語というものが生まれたのではないか。

だから、人類の故郷であるアフリカには、未だに多くの音素が残っているのではなかろうか。

聖橋

震災復興再開発事業#関東大震災などにも書かれているが、震災後、内堀通り、靖国通り、昭和通りなどが幹線道路として整備された。このうち内堀通りというのは、本郷から聖橋、神田橋を経て丸の内に至る道で、聖橋はこのときに初めて架けられたのだ。遷都しないと決めたのは後藤新平、復興予算を30億円と決めたのも後藤。しかし予算は5億円程度に削られてしまった。思うに遷都した方が良かったのではなかろうか。日比谷公園・上野公園・靖国神社参道などはバラックの難民キャンプで埋まっていたらしい。

当時の写真などもいろいろ見てみる。駿河台にはニコライ堂がそびえ立っており、はるかお茶の水から遠望できた。

横浜中華街は、震災前は二階建ての洋館や蔵造りの商館がみっちり立ち並んでいたのが、震災後は平屋木造バラック小屋みたいなのばかりになっている。また当時は中華街とは言わず、南京通りと言っていたようだ。

追記: 関東大震災の時に、那須あたりに遷都しておけばよかったのだ。

製造業

95年くらいに円が対ドルで84円になったころ、製造業はもう駄目だなどと言われて、この頃に日本が脱製造業に向けてさっさと方針転換をしていれば、いまのような惨状にはならずにすんだのだ。95年というのはWindows 95がやっと出てきた頃。ISPがやっと出始めた頃。このころ製造業以外にはいくらでも商機があった。しかし日本は、いつまでもいつまでも電機や自動車にこだわり続けた。実に悔しいことだ。あの頃アメリカはまだ青色吐息で、マンハッタンには乞食があふれていた。日本にはまだまだ余力があった。

なぜ日本はあのとき製造業に見切りを付けて、或いは製造業を原資として、インターネット産業に投資しなかったのか。あの当時、ちょっと頭を働かせれば誰にもわかったことではないのか。ビルゲイツにだってわかっていたことがなぜ日本人にわからなかったのか。

日本はしかし、だんだんに円安となり、海外に少しずつ生産拠点を移すなどして、円高に強い体質になったなどとうそぶいていた。私は、いつまでもトヨタなどの旧態依然とした会社が日本社会を牛耳っていることに、いつもいつも首をかしげていた。しかし結局はトヨタなどの会社の法人税によって日本は支えられていたのも事実だった。愛知万博やらセントレアやら中部地方がこれからどんどん栄えていくかのように言われていた。

しかし今やとうとう日本にとって製造業が斜陽産業となりはてた時代が来た。そしてインターネット産業で日本はまったく出遅れている。実に嘆かわしいことだ。

プレスリー

エルビスプレスリーのDVDなど見ると、プレスリーは言われているほどデブではない。
1977年に42才で死んだのだが、1974年くらいまでのビデオでは普通に腹は出ていない。
コルセットで締め上げているのかもしれないが。

で、プレスリーは毎日ドーナツを百個食べて死んだとか、いやハンバーガーだとか、いやスイカを毎日二個食ったから死んだとか、いろいろ言われているが、せいぜい40代前半で、多少食い過ぎたくらいで健康ならば死ぬはずはない。多少不健康になるかしれんが、40代前半で死ぬというのは相当大変なことだと思う。50才60才なら糖尿病か何かの合併症で死ぬかもしれんがね。

FMレコパルという雑誌(FMファンとあと週刊FMだっけか、FMをエアチェックするためだけの週刊誌があったというのは今では考えられんなあ)があり、たしか黒鉄ヒロシの漫画でプレスリーが西瓜を毎日二個食ってデブで死んだとかいうのを私は読んでそれを今でも覚えている。私よりも五歳か十歳上の人もだいたいそれと同じような記憶。西瓜がドーナツだったりする位の違い。

しかし死ぬ直前に多少デブだったかもしれんが、もう少し長生きすればダイエットしてやせたかもしれんのに、たまたま死ぬ直前の数年に太ったからといってあそこまで、デブで死んだとかなんとか言われるのはかわいそうな気がしてならん。

かなりどうでも良いことだがFMレコパルのマンガにはかなり影響を受けた気がする。メシアンの世の終わりのための四重奏曲などというみょうちくりんな現代音楽をわざわざ聞いたのも、その影響だった気がする。他にも覚えてないがそうとう影響受けた。そうそうたしか石森章太郎だった。Wikipediaにも書いてあるから間違いない。第二次大戦中に牢屋に入れられたときに作曲したんだった。

Wikipediaなど読むとエドサリバンショーではわざと下半身を映さず放送したとか、たしかにプレスリーは下半身が命なんだ。若い頃の全身が映った映像は確かに衝撃的。

でもそれを言うとベリーダンスはどうなんだという話になる。ベリーダンスは太鼓の伴奏とシンクロして胸と腹と腰を別々に揺らすからすごい。ただ腰だけ揺らすのはフラダンスだってやってる。