メンタルは死んでいく

生きているのがめんどくさいに書いたことの繰り返しになるが、ベトナム帰還兵や外人部隊の傭兵が、平和な日常に耐え切れなくてまた戦場に戻っていくというのもやはり脳内麻薬依存であろう。メンヘラとか鬱病とかもなんかの病気というよりは単なる脳内アルカロイドに依存しているせい、デブとか恋愛とか失恋とか仕事のやる気とかそういうのも全部脳内麻薬のなせるわざなのに違いあるまい。

年寄にとって日常がつまんないというのは若い頃ほど何かに熱中できなくなったからだ。あれもこれも、すでにやったことがあることばかりでやったらどのくらい面白いか、好奇心が刺激されるかということもやる前にだいたいわかってしまうし、体力も気力もおちてきているので疲れてしまうからやらない。それでもなんとか今までまだやったことのないことを必死になって探して、あるいは無理やり見つけて没頭してみても、そもいつかは一段落して、飽きて、普通の日常が戻ってくると、よけいに深い喪失感が待っていて、どんどんエスカレートしていって、簡単には楽しめなくなってくる。

つまり年寄は、何もすることがなくなって、死ぬべくして死ぬのだと思う。

昔はいくらでも金の使い道はあるような気がした。今は別に何もない。まず食い物、酒に金をかけたいという気がなくなった。車や服にはもともと関心がなかったし、時計も一時期興味はあったがいまじゃチプカシで十分だと思ってるし、旅行もユーチューブみてたらすでにおなか一杯だし、著作活動もやりたいことはたいていやったし、とにかくやりたいことがない。SNSで匿名でインプレゾンビとかやっている人は何が楽しくてやっているのだろうか。まだ若い人なのか。それとも人によっては年老いて死ぬまでそんなことに夢中になれるものなのだろうか。仕事にはもうすでにまったく興味をうしなった。旧領をもらえなくなるのは困るから働いているが、働かなくても生きていけるのであればすぐにでもやめたい。

しかし最近はみんなブログを書かなくなった。ちょっと気の利いた人は youtubeで動画配信する。twitterでちょこっと発言はしてもブログでまとまった記事は書かなくなった。結局自分が昔書いた記事を読んでいるほうが間が持つ。ついでに手直ししたりアイキャッチ画像を付けたりしている。昔はビデオゲームをやってたらあっという間に時間が経ったものだが今はそれも飽きてやらない。自分のブログ読んでるほうがずっとはかどる。

大和言葉と漢語は普通は混ざらない

大和言葉だけで和歌を詠むのは難しいのではないか、大和言葉だけでは語彙が足りない、表現の幅が狭いので、口語や英語などを混ぜて詠まないと詠めないのではないか、と考える人がいるかもしれない。私も最初和歌を詠み始めたころはそうだった。

私の場合最初は、九州弁と東京弁がまざったような変なしゃべり方をしていたが、やがて普通に東京弁でしゃべるようになり、九州弁は忘れてしまった。しかし九州に帰って周りがみんな九州弁をしゃべっているといつの間にか九州弁でしゃべっている。

英語でしゃべるのも同じで、日本語と英語をごちゃまぜにしゃべるほうが実は難しく、英語をしゃべっているときは人は英語の脳になっているし、日本語をしゃべるときには日本語の脳になっているはずだ。日本語と英語とドイツ語がしゃべれる人がいてもその三つの言語をまぜこぜにしゃべる人はいない。普通は。

和歌もそうで、大和言葉だけで詠むと決めて詠んでいるうちに、口語や漢語なんかは自然と混ざらなくなるはずだ。そのうち漢語を混ぜようと思っても簡単には混ざらなくなる。

語学としてみれば当たり前のことなんだが、和歌もまた一種の語学であり、大和言葉もまた一種の語学のはずなのだが、今の世の中、大和言葉だけでものを読んだり、会話したり、和歌を詠む人がまったくいないので、それがわからなくなってしまっている。

平家物語は和漢混交文ではないかというかもしれないが、あれはあれで一つの特殊な文体なのであって、平家物語の文体を真似てものを書いたりしゃべったりすることはできなくはないかもしれないが、そうではなく、完全にオリジナルに、一から和文と漢文を混ぜてしゃべりなさいと言われても、普通の人がいきなりしゃべれるようになるはずがない。

そもそも大和言葉のすべてが和歌に使われるわけではない。そんなことは誰にもできない。大和言葉のうちから少しずつ、だんだんに歌に使われる歌語というものができていく。詩語というものができていくのである。それは現代短歌でも同じはずだ。口語をそのまま歌にできるわけではない。みんな誰かほかのひとがすでに詠んだ歌から影響を受けて歌を詠んでいる。一から歌が詠めるわけではない。一から歌を詠めるのは天才しかいない。

みんな自由に口語で歌を詠んでいるというのは錯覚にすぎない。

PC環境

近頃仕事場ではPCを同時に3台使っている。このうち2台は古いPCが余ったのでubuntuを入れていて、実際の仕事は win11のPCでやっていて、こいつには2台ディスプレイがついている。

ubuntuの2台はどちらもファイルサーバーとかwebサーバーを兼ねている。また片方は主にyoutubeを垂れ流すためだけに使っていて、もう一台のほうは仕事の合間に適当にネット巡回したりブログ書いたりするのに使っている。

win11のほうは、youtube用に動画をキャプチャしなきゃならんので16:9 つまり 1920×1080 のディスプレイでなくてはならず、補助のポータブルディスプレイもつけている、という構成。

microsoft windows とか office とは不本意ながら定年退職後も付き合わねばならぬ。ほかにも da vinci resolve とか steam のゲームなんかは win でやるしかない。しかしながらできれば仕事から離れたら ubuntu をメインで使いたい。

in out pv

ブログ村をみると in ポイントはいつも 0 か 10 だ。つまりこのブログからブログ村へ見に行くユーザーは私一人しかいないということだ。

最近 out ポイントが割とついている。pv はそれより少ない(追記: pv が out よりちょっと多い傾向がある。いずれにしてもだいたい同じくらい。たぶん pv は自分でブログ記事をあちこちうろうろしている分なのだろう)。

ということは、ブログ村で、いろんなブログを流しでみていくような人に読者登録されたのかもしれない。pv は google 検索かなにかでたまたま来たアクセスなんかだと思うが、これも私のサイトは相変わらず少ない。世間にほとんど注目されてない普通のサイトということだな。いまところ。

私は人のついででブログ村を使っているだけなので、ブログ村へのアクセスを増やそうという気もないのだが、普通、ブログ村を使っている人は、人に自分のブログを見てもらいたいわけで、ブログ村に誘導して順位を上げたいと思っている、つまり inポイントをそれなりに重視しているはずだ。

ブログ村のおかげで見に来てくれる人がいるのであれば、私としても多少は貢献してあげないといかん、つまり、ブログ村のアイコンをもう少し目立つようにしなくてはならないのではないか、という気にはなる。

ガワをふやす

人斬り鉤月斎なんだけれども、ほぼ忘れてたので非常に新鮮な気持ちで読めた。これはこれでKDPで出版しておこうと思ったが、このままでは出だしがいかにも読みにくいので、できるだけすっと入っていけるようにかなり加筆したり、順序を入れ替えたりした。こういう加筆が良いのかどうかよくわからんのだが、小説などというものは、身が大きくて衣が薄いエビフライよりは、クリームがみっちりでシューが薄いシュークリームよりは、むしろ中身がすくなくてガワが多いほうがさらりと読みやすいと思う。落語も枕から始める。私の場合いきなり本論から始めたりするが、それじゃだめなんだなと、人に言われてもピンとこないが、自分の旧作を忘れたころに読み返すとそれを実感する。

世の中には逆に中身はないけどさらりと読めて面白い文章を書く人もいるのだろう。それもまた美徳ではあるので見習えるところは見習わなくては。

ついでに初めてKDPのペーパーバックというものに挑戦してみた。手元に置いておいて人に見せるにはちょうど良い媒体かもしれない。750円で売ると450円が印刷代、300円がアマゾンの取り分で、著者には1円も入らないが、別にそれでもよい。751円くらいにしておこうか。

戦後民主主義的テレビドラマ的時代小説を破壊したくて書いたなどと言っていて、ははあ当時はそんなつもりで書いたんだなあと改めて思った。戦前の菊池寛とか、山本周五郎とか、あるいは子母澤寛あたりまでは好きなんだが、吉川英治あたりまでくると、強烈な戦後臭がして嫌なんだよね。それはNHK大河ドラマにも言えることなんだが。戦後のサラリーマン社会から電柱なんかを消してちょんまげのヅラをかぶった感じが嫌だな。そういう現代臭を消し去らなくてはならないと思うんだよね。でも結局彼らは現代のほうが過去より良いと思ってるから、逆に過去へ現代をばんばん投影させて、過去を自分好みに改変してくる。過去がもっとこうなら良かったのにとか、過去はこうだからいけない、今の時代に生きている俺らは幸せだ、戦後民主主義は最高だとか、そんな価値観ばんばんぶっこんでくる。それが嫌味だよな。そう。お説教臭い。何もかもが。

そりゃまあ医療とか福祉なんかは現代のほうが優れているに決まってるんだろうけどさ。

たぶんこれ、KDPが始まる前に新人賞に応募するように書いたものだな。KDPがでてきた頃には忘れててそのまんま放置されてたってことだな。

薄めて話す

私の場合、なにか話すときは半分か10分の1くらいに薄めて話したほうが良いと思う。聞かれないことまで話す必要はない。それを言えば飯を食うのも半分くらい、酒を飲むのも半分くらいにしたほうがよい。なにごとも少し足りないくらいで止めておいたほうが良いと思う。

人生あと20年くらいあるとして、何でもかんでもやっていたら時間が足りないから、どうしてもやっておかなくてはならないことだけにしぼる。埼玉県、とくに秩父あたりの神社巡りとかしてみたい。近場だし、時間も金もかからない。いまさらしなくてもかまわないが時間が余るくらいならしてもよいかもしれない。

その代わり、本を書くときは、1年とか2年とか十分な時間をかけて、十分に文言に注意して、ただ普通に書く文章の10倍くらいの密度のものを書かなくてはならないと思う。死んだ後にも残るものだと思えばどうしてもそうなる。

旧作の手直し

昔の記事を読み返していると、人斬り鉤月斎というものを昔書いたらしくて、探してみたら出てきて、2011年から2013年くらいにかけて書いたらしく、ということはエウメネスを書いたころに並行して書いたようなのだが、覚えがまったくなくて、まったく他人の書いた小説を読むここちで読んでみたのだが、非常に読みにくい。

冒頭いきなり城南山善因寺という寺が出てくるのだがこれがまったく架空の寺である。水戸光圀が東皐心越という渡来僧のために江戸に建ててやった長崎風の「南京寺」という設定で、もちろんそんな寺は長崎にはあるのだが、江戸や水戸には無いのである。

しかしまあ、剣術使いもので、水戸光圀とか南京寺が出てくるのは少し面白いかなと思うので、手直ししてみようかなという気に少しなっている。

北武蔵

北武蔵の秩父とか長瀞とか寄居とか越生とか日高あたりをのんびり旅行してみたい気もする。急げば日帰りできるのだが、二泊くらいしてじっくりみて回りたいな、みたいなことを、ゴケゴーちゃんねるなど見ていると思ったりする。

noteとかyoutubeとかで趣味の記事や動画をあげていくのは良いことだと思うのだが、しかし私の場合それをやっても、どうせ収益化できるほどの客はつかない。であればこんなふうにブログに書き散らすだけで十分だ。ブログにはアフィリエイトという収益化の道があるが、うまくいかないから note みたいなものがでてきて、収益化するなら動画のほうがより効果的というのでみんな youtube へいくんだろうな。

ブログのタイトル

これまでけっこうあちこちでちょこちょこブログを書いてきたが、それらの記事は最終的にこの「はかもなきこと」に全部まとめている。こういうレンタルサーバーにブログを置いていると死んだとたんにサーバーごと消滅してしまうので、はてなブログなどに移しておこうと思ってた頃があったんだけど、まあそれはそれで、生きているうちはやはり自分のサーバーに置いておいたほうがカスタマイズしやすいし、人のブログもいくつか管理しているので、そんならついでに自分のブログも再開しようということになった。

「不確定申告」というのは今もはてなブログにあると思うが、それはここのバックアップのようなもの。

「はかもなきこと」は昔実名でブログを書いていたときのタイトルなのだが、その当時のブログは今検索してもまったく出てこないだろう。田中久三名義で書き始めたのは「亦不知其所終」というタイトルだったがこれは日本外史の北条時行のところで出てくる文句。「はかもなきこと」は和泉式部日記の「はかもなき夢をだに見であかしてはなにをかのちの世語りにせむ」から来ている。「はかもなきこと」「亦不知其所終」「不確定申告」いずれにしても、私はどうも否定から入るのが好きらしい。気をつけなくてはならない。ほかにも「世田谷素描」という題でブログを書いていたこともある。これも今検索してもまったく出てこないと思う。

アメリカは金利を下げるという。金利を下げるとまたしてもアメリカ人は借金して株を買うだろう。NYダウもとんでもない額になっている。金利を下げれば物価は上がり、賃金も上がり、インフレも進むだろう。貧乏人はますます借金し、ますます生活が苦しくなる。いいのかそれで。そもそもインフレになるのはアメリカの景気が良いからではなく逆で、景気が悪いからドルをどんどん刷って景気を無理やり回そうとするからで、ドル刷りすぎというのは政府、いや、中央銀行が悪い。ドルを刷るのはタダだからどんどん刷ってしまう。インフレになればなるほど貯金をしても無駄でむしろ借金したほうが得、ということになる。アメリカはもう完全に腹をくくってやっている。この借金経済というものはドルが基軸通貨であるうちは誰も損はしない。アメリカにどんどん借金が溜まっていっても、でっかい戦争があればそんなものは吹っ飛んでしまう。ただしアメリカ以外の国の通貨がとってかわって基軸通貨となったときに、アメリカは借金のせいで死ぬ。

ユーロは、EUが貧乏国をたくさん抱えているせいで信用がない。基軸通貨にはなれまい。スイスフランは安定していて高値だが、国が小さすぎて基軸通貨にはなれない。同じことはイギリスポンドや日本円にも言える。人民元は中国がもう少し腰が低くものわかりの良い国だったら今頃とっくに基軸通貨になっていたかもしれないが政治が悪すぎる。インドも人口が多いだけでまだ全然ダメ。となるとしばらくはアメリカドルでいくしかないから、案外パクス・アメリカーナはまだまだ続くのかもしれない。ただ誰もが言っているように大統領選挙のあと株がどかんと下がるってのはかなり高い確率でありえる。今のうちに売っておきたい株はいくつもあるのでそれを適当なところで売っておき、下がってから買い足す予定。私の場合特に理由がなければ100株ずつしか買わない。リスクは分散させたいからだ。一人投資信託的なやり方。下がったらナンピンして後で損しない価格で売って100株に戻す。基本的にそれしかやってない。なら最初から投資信託でいいじゃんと思うかもしれないが、他人任せなのは嫌なのだ。

何もやる気が起きないときには何もせず何も考えないのが良いのかもしれない。そうしていると無意識に脳の中が整理整頓されて、またものを考えようという気が起きてくる。それが瞑想とか悟りというものかもしれん。

飯も食わず、酒も飲まず、人とも会わず。勉強もせず。そういったものを無理につめてつめて人生を有意義にしようとするのがかえってよくないのかもしれない。

岡本太郎2

相変わらず岡本太郎を読んでる。

岡本太郎は伝統は過去のものではなく現代のものだと言っている。確かにその通り。過去の、死んだものではなく、その継承者や文化、生活とともに in vivo に保存されたものでなくてはならない。しかし、続けて言うには、

「伝統」は、もっぱら封建モラル、閉鎖的な職人ギルド制の中で、むしろ因襲的に捉えられて来ました。今日でもほとんど、アカデミックな権威の側の、地位をまもる自己防衛の道具になって、保守的な役割を果たしています。

そうした不毛なペダンチズムに対する憤りから、岡本太郎は『日本の伝統』を書いたのだという。「伝統」と言っても明治後半に作られた新造語に過ぎず、「内容も明治官僚によって急ごしらえされた」「文部省がバックアップして権威になると」「無批判に、ウムを言わさず国民に押し付けてしまう」「新しい日本の血肉に決定的な爪あとを立ててはいない」「大層に担ぎあげればあげるほど、かえって新鮮さを失い、新しい世代とは無縁になりつつある」「学者、芸術家、文化人、すべてが官僚的雰囲気の中で安住している」、要するに、東京大学文学部の亀井勝一郎、竹山道雄なんかが嫌で嫌でたまらないんだろうなってことはよくわかった。私が佐々木信綱に抱く感情に近いものがある(佐々木信綱には私が好きな歌もあるが、考え方で相容れないところも多い)。

まあよろしい。しかし

絵描きには浮世絵や雪舟よりも、ギリシャ・ローマの西洋系の伝統の方が、現実の関心になっている。

などとくると、はて、それは単に、あなたの感想ですよね、としか言いようがなくなってくる。浮世絵や、明治に入ってからの錦絵などにも、面白いものはいくらでもあるではないか。もちろん明治の錦絵や、もっと後の川瀬巴水なんかは西洋画の影響を受けたものではあるのだが。

源氏物語だとか(中略)新古今だとか俳諧だとか(中略)それよりもスタンダール、ヴァレリー、ドストエフスキー、サルトルでも、カフカでも、フォークナーでも構わない。多少のインテリなら、若い日、むしろそういうものに夢中になり、魂が開かれ、(中略)音楽でも、ベートーヴェンやショパンよりも第何世常磐津文学兵衛の方がぴんとくる、なんていう若者は珍しい

などというに至っては、それってただの西洋かぶれですよね?としか言いようがない。スタンダールも私は読んでみたが長すぎて展開が遅すぎてとても読めなかったんだが、岡本太郎は読んだことがあるのだろうか。サルトルなんてばかばかしくて読む気もおきない。三遊亭円生が落語の中で常磐津なんかをうたったりするが、常磐津がすごく好きなわけじゃないが、ああいうふうに歌えたらきっと気持ちが良いだろうなとは思う。

岡本太郎の視界には、杜甫や李白、史記、平家物語や吾妻鑑や太平記、日本外史、三国志演義、西遊記、水滸伝、紅楼夢のようなものはまったく入ってこないのだろう。彼に見えているものは伝統そのものではなく、伝統を掲げてふんぞり返っている官僚や学者、虎の威を借りる狐らの姿なのだ。トゥキディデスやクセノフォンやアリアノス、イブン・バトゥータも見えてはいるまい。

岡本太郎は、どこか書きすぎるところがある。突っ走り過ぎるところがある。面白いことを言ってるけれども、明治政府が作り出しそこに乗っかった権威主義的アカデミズムが嫌い過ぎて、そこへ自分自身の偏見と無知が加わって、いたるところで論理がねじ曲がり破綻しており、勢い、明治以前の文芸を否定し西洋を礼賛している、ように見える。しかしながらしょせん彼は言論の人ではない。評論家ではない。画家であり芸術家であるから、多少おかしなことを言っても、あーあの人は芸術家だからと見逃されているだけだ。

私もつい先日文学というものを書いたが、私が感じている近代文学のいかがわしさというものを、岡本太郎も感じているのだと思う。