自民党

自民党が派閥解消して総裁選をやり、パーティー券を売るのもやめるという。これはもはや自民党とは言えないのではないか。自民党はもともと連立政権が一つの政党になったもので、政党内政党、つまり派閥を持つことを前提として成り立っている政党だったはずだ。麻生が派閥を肯定したのは当然だ。しかし岸田は派閥をぶっ壊して逃げた。

派閥無しでガチンコで総裁を選んで総理大臣を出したとして、その総裁のもとに自民党がまとまるという保証はあるのか。

政党政治というものはもともと派閥政治である。派閥を否定するのであれば、自民党は普通の政党の集合体になるしかないのではないか。

私は今みたいな寄り合い所帯が長期独裁政権を続けるよりは、派閥ごとに政党を組み、場合によってそれらのいくつかが連立政権を立てる、というやり方のほうが良いと思う。岸田はそこまでの考えがあって今回の挙に出たのだろうか。

自民党は長く続きすぎてあまりにもつまらなくなった。ネトウヨ政党はちょっと面白いだけでまるでまとまりがなく、政党をどうやって運営していくかということがまったく手についてない。そろそろまともな政党が出てきてほしいものだが、どうなることか。

たけくらべ

樋口一葉のたけくらべとか幸田露伴と森鴎外がたけくらべを批評した「三人冗語」などを読んでいるのだが、確かにたけくらべは面白いといえば面白いのだが、最近はこういう、いわゆるジュヴナイルな小説というものはいくらでもあるので、当時どのくらい珍しくて新鮮な衝撃だったかというのがわからない。

話はおそらくは逆で、樋口一葉のたけくらべから、筒井康隆のジュヴナイル小説やら少女漫画などが生まれてきて、感覚がマヒしてしまっていて、それで今たけくらべを見ても何も目新しさを感じないのだと思う。あとやはり文体が古すぎるのも現代人にピンとこない要因だ。

樋口一葉研究の第一人者と言われる塩田良平の解説なども読んだのだが、なんだか異様に決めつけが多いように思う。半井桃水と一葉の関係とか、なんとかかんとか。

ピッチアクセント

ゆうだい先生の「ピッチアクセント」の動画を見たのだが、日本語にはもともとアクセントとかイントネーションというものがなかったのだが、なぜか平安時代の京都にいきなりピッチアクセントというものが生まれて、それが日本各地に広まっていったのだという。

思うに、平安時代かあるいは奈良時代の後期に、中国語の四声というものが、漢字の音読みとともに日本に渡ってきたのではなかろうか。最初の頃は漢字の四声も含めて律儀に発音していて、それがじんわり大和言葉の発音にも影響を与えて、つまり、漢語と大和言葉を混ぜて話しているうちに全体にアクセントというものができてしまったのではないか。

アクセントのあるしゃべり方をしていたのはおそらく日本人ではなく、百済人などの渡来人だったのではないか。そのうちに漢字の四声は忘れられ、日本語のピッチアクセントだけが残った、というのはどうだろうか。

まだまだ上がるアメリカの株

アメリカの株がまだまだあがり続けそうなのは驚きだが、要するにアメリカでは借金や貧乏人が急速に増えつつあるけれども一方で金持ちが金を持て余していて、そのやり場に困って結局株を買ったり、金を買ったり、不動産を買ったり、仮想通貨を買ったりしているのだろう。それで消費が落ち込み、失業者が多少増えたとしても金利は高止まり、インフレが継続している。貧乏人にどんどん金を貸して家を建てさせて経済を膨らませ回している。恐ろしい国だ。いずれにしても消費が減速しない限りインフレは止まらない。止まった時が見ものだが、こういうふうに貧富の差が開きまくっても国というものは案外安泰なのかもしれないな。

薬飲み忘れ

つい最近、コロナだった、とか風邪ひいた、とか言う記事を書いたのだが、どうもこの時期薬をだいぶ飲み忘れていたらしくて、それで先週の検査で心房細動が出てしまったようなのだ。それでいつもより少し多めにアミオダロンを飲むようにした。

そしたら心房細動も収まってきたように思うが、まあまだよくはわからん。

来月2回また病院に行くのでそのとき止まってたら薬の飲み忘れのせいだとみてよいのではないか。

結局私の持病の拡張性心筋症なんだけど、心臓が膨らむことによって心房細動がおき、心房細動が起きることによってさらに心臓が膨らむという悪循環を起こす。この拡張性心筋症にかかる原因は結局わかってないらしく、運が悪いとしかいいようがない。酒を飲んだり飲まなかったり、運動をしたり、ストレスのせいだったりとか、そういうことはあんまり関係ないように思う。

で、アミオダロンという薬がこの特効薬なのだが飲み過ぎると私の場合甲状腺がいかれポンチになることがわかっているので、あまり量は増やせない。だから、飲み忘れの無いように毎日コツコツ飲むしかない。

このアミオダロンの成分は脂肪に蓄積されるらしいので、飲み忘れてしばらく経ってから影響が出るのかもしれない。

ま、ともかく、いつ何があって何をしたか記録しておくためにも、このブログは自分のためにもこまめに記しておいたほうがよい、という気がしてきた。

アミオダロンを1日2錠飲んでいたら甲状腺がやられて1日1錠に減らしたら心房細動が出っぱなしになるようになったので、2020年2月にアブレーションの手術をした。そしたらそれ以後心房細動が出ないようになった。それがこの7月になってまた出たので焦ってしまった。この頃の日記はなくて、twitterに若干記録が残っているのだが、やはりブログはきちんと書くべきだなあと思う。特に私のように持病をもっている人間は。

ここのBNP上昇というところでも薬飲み忘れなどと言っている。ここで出てくるアンカロンというのはアミオダロンと同じ。私は結局このアミオダロンという毒薬によって命をつないでいるのだなあ。

塵中日記

樋口一葉の父は甲斐国から江戸に駆け落ちしてきた幕臣の息子であったらしい。甲府藩はもともと徳川宗家が治めていたがのちに幕府直轄領となり、江戸であぶれた幕臣が左遷されるようなところであった。ということは樋口家ももともとさほど身分の高い幕臣ではなかっただろう。駆け落ちしたかったということもあっただろうが、辛気臭い甲府を出て華やかな江戸時代末期の町人文化が花開いた江戸に出たいという気持ちが強かったのではないか。

一葉の父、樋口則義はいろいろ周旋して同心株を買って町奉行所の同心になったという。町奉行所には奉行がいて、与力がいて、同心がいて、その下に岡っ引きがいるわけで、おそらく則義のような仕事をこなしつつやっと同心に取り立てられたということだろう。となると、一応は、銭形平次や八五郎よりは身分は上で、最下級ではあるものの徳川宗家直参の武士ということになる。

与力といえば大塩平八郎が有名だが、与力ともなれば200石扶持、300坪程度の屋敷を与えられるからいっぱしの御殿様だ。

同心はそれよりか少し格下で30俵2人扶持だが100坪、つまり300m2程度の屋敷を与えられていた。

ところが幕府が瓦解して、父は死に、一葉一家は住む家にも困ることとなる。典型的な没落士族といった図だ。この頃一葉が書いた「塵中日記」を読むと、非常に狭い棟割長屋のようなところに親子三人で住んでいる。そうしてそういう境遇から抜け出せないままに24才で死んでしまうのだから、なんともかわいそうな人だ。

塵中日記は文章もわかりやすく読みやすいし、歌も面白い。近所に住む女郎連中に手紙の代筆を頼まれたりしている。

首長の資格、民意の反映

雑な議論に書いたことの繰り返しになるが、ゼレンスキーだってもとはお笑いタレントだし、小池百合子も蓮舫もテレビタレントだし、青島幸男も横山ノックもそうだし、ロナルド・レーガンもシュワルツェネッガーもみんなそうだ。テレビに出て顔と名前を売らないことにはそもそも選挙に勝つことができない。政治的手腕なんてものは後付けにすぎぬ。

ゼレンスキーにしても、個人の勇気や決断というものはもちろんあっただろうが、彼を神輿に担いでロシアに一泡ふかせてやろうというやつらが大勢集まって金を出し合ったからあれほどのことができたのだ。ゼレンスキーと小池百合子に何の違いもないということは、じゃあ小池百合子でもいいんじゃんということになる。

要するに政治家というのはフロントエンドに過ぎず、バックヤードの有象無象が権力と金と人を動かして、その結果組織票を集めて、見た目、民意が反映されたというお墨付きを得ているだけなのだ。それは民意のようで民意でもなんでもない。民意などというものは浅はかで頼りにならぬもので、そもそも存在しているかどうかすらあやしい。匙加減しだいでどうとでもなる。株価の操作にしても似たようなものだろう。株式会社というものは経営の民主化のように言われているが実際には一部の資産家が結託して上げ下げしているのだろう。もちろん番狂わせのようなことや、予想以外の展開というものもあるのだろうが、だいたいは操縦可能なように、民衆は普段から飼い慣らされている。

私は町の立ち飲み屋で飲むとき客どうしの話をそれとなく聞いたりするが、どいつもこいつもみんな踊らされている。彼らの人生と都知事と何の関係があるのか。まったく無縁無関係のことになんであれほど、酒のつまみ替わりとはいえグダグダと議論するのだろう。実に不思議だ。ツイッターでは、話の向きは逆のことが多いが、踊らさされているという意味では同じだ。何かしらに踊らされて踊るように民衆は子供のころから調教されている。

首長なんて飾りで誰がなっても同じだとか、何もしない首長が良い首長だとかいうのはもっともだが、神輿のてっぺんに鳳凰の飾りが乗ってるように、飾りは飾りとして人目について機能しなくてはならんので、ランダムに無名の人を選んでは大衆が納得しないから、なんかもっともらしい学歴とか業績をくっつけて、結局タレント政治家が生まれるという仕掛けになっている。所詮選挙など売名行為以外の何物でもないのだ。

前にも書いたが選挙の結果みんなが納得して政治が安定して回るなら裏で何が行われていようと、民意が捏造されていようと、そりゃそれでいいのかもしれない。人がみなものわかりが悪くて暴動を起こして店を燃やしたり、監獄を襲撃したり国王をギロチンにかけたりするよりかずっとまし、という考え方もある。実際、選挙やってれば人民は納得して実力行使に走りにくいというのであれば、あいつらそれで気が済むんならやっときゃいいんじゃんという流れになるしかない。

しかしまた、民意なんてものが巧妙に仕立てられたヤラセに過ぎず、何の根拠もないのであれば、民意を(表向きは)無視した徳川幕府や足利幕府のような専制支配と本質的には何も違わぬということにならんか。徳川は足利を悪政と叩き、薩長は徳川を悪政と叩いたが、はたしてそんなに悪い政治だったのだろうか。今の政治のほうが良いという根拠はなんだろうか。ただの幻想ではないか。

帯状疱疹

私は2014年に帯状疱疹にかかっているので、コロナワクチンとは関係ない。

帯状疱疹の発症が増えているというが、昔は帯状疱疹と診断されることが少なかっただけではないのか。或いは昔は皮膚科が少なかったとか?

また帯状疱疹は50才以上の年寄りがかかるものなので高齢化すれば当然発症者は増えるよな。

樋口一葉

樋口一葉を少し調べ始めたのだが、一葉の和歌が面白いとか、日記が面白いというのならばわからんでもないのだが、みな小説ばかり褒めているのが奇怪だ。

なるほど平安時代や鎌倉時代には紫式部を筆頭として女流作家がたくさんいたが、室町、安土桃山、江戸時代になると、戯作作家は男ばかりになって、女がいなかった。明治に入って一番最初に女流作家となったのが樋口一葉だったので、彼女一人に注目が集まった、ということか。

実際、明治時代に有名な女性作家としてはあとは与謝野晶子くらいしかいないが晶子は歌人であって小説家ではない。となるとどうしても一葉がもてはやされることになる。

しかしながら一葉が書いた小説というのは新聞に載せるために書かれた通俗小説、それも短編読み切りの短いものにすぎない。内容もどぎつくて深みがあるとも思えない。内容もさほど珍しいものではない。こういうものは為永春水あたりがいくらでも書いていたし、もっと長編だったし、さらに言えばもっと読みやすいものだった。一葉の小説はまず読みにくい。また、面白いのかどうかもよくわからんし、オチがあるのかどうかもわからない。一葉の小説は実験小説かと思うくらいわかりにくい。もしかすると新聞の都合で無理やり尺を縮められてわけがわからなくなっているのだろうか。一葉はとりあえず世間的な名声が欲しかったのだろうか。作家として安定した地位が欲しかったのだろうか。そのための手段として通俗小説作家になろうとした?いろいろとわけがわからなすぎる。一葉は器用な人なのでとりあえず小説もざくっと書けたのだろう。日記をもっと丹念に読んでみればわかるだろうか。

一葉の日記は小説とはうってかわって非常に読みやすいし面白い。小説も日記のように書けばよいのにねと思ってしまう。和歌はつまらないと人は言うけど私からみると非常に優れている。私にとって与謝野晶子の奇を衒った歌よりは、一葉の和歌のほうがずっとまともに思える。

一葉の文章が良いのは和歌の素養があるからであって、それ以外の通俗小説的な部分は、少なくとも私には全然面白味がわからない。井原西鶴や山東京伝や滝沢馬琴や上田秋成や為永春水が面白いというのは私にもわかる。尾崎紅葉の金色夜叉が面白いというのもわかる。菊池寛が面白いというのもわかる。が、一葉が面白いとは私にはとても思えないのだ。男と女が無理心中したとか吉原の芸者がどうしたこうしたという話にも私にはあまり興味がもてない。近松門左衛門に曽根崎心中とかあったよな。それとの比較考察とかした人いるの?

一葉はもしかすると歌物語のようなものを書きたかったのかもしれない。しかし新聞の読者はそんなものを読みたがらない。江戸時代の読本みたいなものを少し近代風にアレンジしたような小説が読みたかったのではないか。いったいぜんたい一葉はどうしたわけで半井桃水みたいな俗物を師に選んで新聞小説を書こうと思ったのだろうか。もし一葉が与謝野晶子くらいに長生きして、大作家に成長し、新聞社の顔色を気にすることなく、読者の評判などにとらわれることなく、本格的な歌物語なり小説なりを書いていたらきっと傑作ができただろう。実に惜しい気がする。

酒を飲まなくても平気

最近なんだか酒を飲まなくても平気になってきた。

もともと一日のストレスを解消してさくっと寝るために酒を飲んできたのだが、今はそのストレスがたまってないのか、何かの〆切に追われる強迫観念がないのか、酒を飲むと楽しい以上に体が疲れるようになったか、年をとってもともと酒量が減ってきていたのがある限界を超えてもう飲まなくて良い体になったのか。

或いは酒を飲むことに飽きてきたのかもしれない。

ともかく年を取って体質も変わってきたし、髪質も変わったし、白髪も増えたし、酒を飲む量が減ってもおかしくはない。病気になったり体調が崩れて体が酒を受け付けなくなった可能性もないではないが、今のところ体調は良い。

酒を飲むことでストレス発散になるのは確かだが、酒を飲むこと自体がストレスになるので、プラスマイナスゼロかといえばどちらかと言えばトータルでマイナスだった気がする。飲まないほうがストレスが少なくて済んでいるように思える。

いずれにしても以前に比べて今は比較的ストレスが少ない状態だ。