亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

02.25.2018 · Posted in 雑感

連載記事を書いているのだが、だいたい1回分を4500字くらいで書いている。 4000字くらいで書こうと思うと、伸びたり縮んだりして、3500字とか5500字くらいになる。 だいたいは伸びるので、後半は後回しにして前半を膨らませたりして長さを調節するのだが、これが難しい。 伸ばしたり縮めたり足したりしているうちに、これ別にいらんなとか、これはもっと書きたいとか、どんどん文章が変わっていく。 結果的に良い方向に推敲して密度を高くできていると思うので、それはいいんだけど、2回先、3回先くらいまでは少なくとも先読みして書かなくてはならんので、割と気を使う。 紙に刷ってしまうともう書き換えできないしね。 一定間隔に電車を走らせるような感覚に近いかもしれん。

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02.22.2018 · Posted in 雑感

続き。この池田雅延氏の話を聞いていると、小林秀雄の『本居宣長』は、連載途中はほんとうに面白くなかった可能性もあるよなと思えてきた。 小林秀雄自身も自分の書いたものが面白くないってことは自覚していたのだ。 だから64回1500枚、ものすごくだらだらと書いたものを、編集者に読ませて、わかりにくいところは徹底的に質問させて、徹底的に書き直して、 1000枚に縮めた。 「君が読めなくては、読者は誰も読めないのだから」というのはまさに言葉通りの意味だったのではないか。 読めない、面白くないということは、小林秀雄が、白洲正子以下、いろんな人に言われてきたことなのだ。 1000枚というのはつまり40万字だ。1500枚は60万字だ。20万字を捨てたのだ。 そのこと自体物書きにしてみたら大したことではないのだけど、まあ、ものすごく書き直したということだ。

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02.21.2018 · Posted in 雑感

池田雅延氏 小林秀雄を語る。 リンク先のMP3ファイルはもう落とせなくなっている。 自分のPCの中に残っていたものを改めて聞いてみた。

小林秀雄の芸

57:00 あたり、「美しい花がある、花の美しさがあるのではない」という陶然とするような言葉に、読者は酔って、小林秀雄についてきたのだけど、 こういう言葉はしょせんは「読者に読んでもらおうという一心で書いた工夫」に過ぎないという。 読者サービスであってその言い回しそのものには大して意味はないのだ。

となれば白洲正子などはその読者サービスの文句ばかりを拾い読みして、読んだ後にそれらの狂言綺語を覚えているだけで、小林秀雄が言いたかったことは何もわかっていなかったということではなかろうか。 小林秀雄は『本居宣長』を書くときにはとにかくもう宣長を精しく解き究めることに夢中で読者サービスを忘れた。 というより、もう晩年で、読者も獲得済みだったから、とにかく宣長を書くことで精一杯だった。 だから白洲正子が『本居宣長』を読むと、小林秀雄の言葉が並んでいるのはわかるが、ただの作文に過ぎず、読み終わると何が書いてあるのか全部忘れてしまう、ということになるのだろう。

小林秀雄は批評家と言われ、評論家と言われるが、彼の文章は言わば「芸」であったから、美術館の中でまだ誰の作品とも知れない絵を前にして、

熟れきった麦は、金か硫黄の線條のように地面いっぱい突き刺さり、それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の縁に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥き出ている。空は紺青だが、嵐を孕んで、落ちたら最後助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管弦楽が鳴るかと思へば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた。

などという体験をして、それを回想する形でゴッホの評論に書いている。 「旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向うに消えた。」というのは小林秀雄の主観以外の何物でもないわけで、 「旧約聖書の登場人物めいた影」などというものをゴッホは自分の絵の中に描いてはいないのである。

『本居宣長』も、小林秀雄は宣長を批評しようと書いているよりは、彼の作品を鑑賞して、それを自分の文章という「芸」で著そうとしているのだから、 普通の人が書く本居宣長論と違ってくるのは当然なわけだ。

小林秀雄はさきに『実朝』『西行』を書いているから歌論というものが一応書ける人なわけだ。その延長線上で『宣長』を書いているから『宣長』が書けたのだと思う。

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花月草紙

02.21.2018 · Posted in 読書

花月草紙 p.191

松平定信は朱子学者であり、国学に批判的などと言うが、国学を批判したとされるこの花月草紙などは明らかに国学者が書くたぐいの和文の随筆であって、源氏物語をほめたりもしている。 どちらかといえば、国学者として国学を論じているのであって、朱子学者の立場で国学を批判しているのではない。

藤氏のさかりになりて、君をなみしし勢ひを憚らず書いて、源氏の君を大臣の列に加へ給ひて、藤氏を押し鎮めしことも、夕霧を大学寮に入れ給ひしも、皆、かからんかしと思ふことをよそごとにして書けるぞ尊き。げにまたなき物語なりけり。されば見るごとに奥意の深きをおぼゆ。

とまあ、こんな具合に『源氏』を絶賛しているのだから、定信は国学者というしかない。 ところが、

ただ仏の道にのみ入りて、誠の道に暗ければ、冷泉の帝、光君の御子なりしことをはじめて、しろしめしたるところの書き様、道知らぬよりして、誤れりけり。ここのみぞ女童べなんどの見ても、道踏み違ふべくやと危くぞ覚ゆる。薄雲・朧月夜なんどの人の道に背けるは、童べも知りぬべければ、迷ふべしとは思はれずなん。仏のことをばやんごとなく尊き限り書けれど、よゐの僧のようなき事さし出でて言ふさま、三所にまで書きたるは、またをかし。此の物語を、ただにあはれを尽くしたるものにて、させることわり著したるものにはあらずと、もとをりの言ひたるはをかし。されどもはしばし、心はこめて書いたるには疑ひなし。

この「夜居の僧の用なき事さし出でて言ふ様」というのは、「薄雲」の巻で、冷泉帝の母桐壺が光源氏と密通して冷泉帝が生まれたのだということを、夜居僧都が冷泉帝にばらしてしまったことを言う。夜居僧都というのは宿直で侍っている僧侶という意味で、光源氏と桐壺の秘め事を実際に目撃したらしい。 「三所」というのはおそらく、「薄雲」の第一段から第三段に渡って、というくらいの意味か。

紫式部は、僧侶を高貴だとか、尊いとも思っていないと思う。少なくともこの夜居僧都に関しては、かなり批判めいた書き方をしているのではなかろうか。 ここで「をかし」といっているのはニュアンスとしては現代語の「おかしい」「変だ」という意味だろう。 その次いきなり本居宣長の「源氏物語はただ単に、あはれを尽くしたもので、格別何かの道理を説いたものではない」という意見も「をかし」と批判している。 定信は源氏物語を愛好していたが、ところどころ、女子供が読んで誤解するところがあるのがよろしくないと言っている。 また紫式部は仏教ばかりありがたがって、誠の道、つまりここでは朱子学を、知らないと言って批判する。 つまり、定信の源氏物語理解は宣長よりはよほど浅かったということではなかろうか。

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01.26.2018 · Posted in 雑感

服道楽というわけではないのだが、最近、靴もズボンも服もどんどん増えてきて、仕方ないのでハンガー買ったり、業務用のハンガーラック買ったりしている。 ハンガーラックは今まで寝ていたシングルベッドの上に置くことにして、布団は寝るたびにリビングに敷くことにした。わざわざクローゼット一部屋用意するなんて贅沢なことはできないんでね。

一番大きな原因は、実家から父や祖父の服をもらってきたせいだ。めちゃくちゃ多い。

最近、古着をちょくちょく買うようになったのも原因かもしれない。

年を取ると自然と服が溜まってしまうせいかもしれない。そう、服は、捨てないとたまる一方なのだ。

もう一つ、年を取ると、役職とかのせいで、フォーマルな服とか、カジュアルな服とか、フォーマルとカジュアルの間くらいの服とか、いろんな服が必要になり、また、服に合わせてズボンや靴も買わなくてはならない。 それまで結婚式や葬式用の礼服、仕事用のスーツ、それ以外は適当な服。で済んでいたのが、仕事用も普段着も何種類も持つようになった。 若い頃は部屋の中を占領するものといえば、本とCDだったのだが、今は服がいちばんかさばる。 そして服は毎日使うものだから、てきとうにしまっておくと探すのにてまがかかって仕方ない。 だからもう諦めてハンガーラックにかけておくことにしたのだ。 ズボン用のハンガーも10個まとめ買いした。 定年退職したら、仕事用の服はすべて不要になる予定だが、それまでは服に埋もれてなきゃならないようだ。

基本的に私は革靴しか履かないのだが、 茶系統が好きだが黒も要るので、 カジュアルな革靴(茶)、少しフォーマルな革靴(茶)、フォーマルな革靴(茶)、フォーマルな革靴(黒)、雨の日用のブーツ(合皮、茶)の5種類を持っている。これら、実はブーツ以外はみんなアマゾンで買ったのだ。 そのほか、ゴム長靴、上履き(スリッポン)みたいなやつ、下駄、雪駄、オタフクの健康サンダルなどを持っている。 けっこうな靴持ちではないか。 だが、どれも状況に合わせて必要なのである。

帽子も最近はよくかぶるようにしている。まあしかしこれは趣味だな。

三十年前、高校生や大学生の頃から持ってる服や鞄というものはざらにあるわけだし、箪笥の肥やしというが、服は増えるわけだよなあ。

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01.08.2018 · Posted in 雑感

心臓に持病持ちなのだが、最近ときどき急に気分が悪くなることがあって、 心臓のせいかと思ったが、そうではなさそうだ。

もともと汗っかきなのだが、急に大汗をかいて、そのとき体内の水分が足りないと脱水状態になる。 こうなるともう立っていられない。水を飲んでもすぐには回復しない。 電車の中で揺られて立っているときになりやすかったのだが、 今回歩いていてもなった。 汗をかいたときにすかさず水分補給をするべきなのだろうが、なかなかそれは難しい。 やはり朝食をきちんと採るというのが正解なのかもしれない。特に外を出歩くときなどは。

空腹というのは不思議なもので、あれは体調にはほとんど影響がない。 ただ精神的に非常に辛いだけだ。

ほんとに腹が減っていると、私の場合には立ちくらみという形で現れる。 そういうときはしかたないのでフルーツグラノーラかなにかをかじる。

ほとんどは心臓とか、心臓のために飲んでいる薬のせいではないという気がしてきた。

コレステロール値を下げるには体重を減らすしかない。 体重を減らすには炭水化物を減らすのが一番効果的だと思う。

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恵方巻き

01.08.2018 · Posted in 雑感

恵方巻きの何が不愉快かと言えば、それが日本の伝統を偽装し、迷信を人々に植え付けているからだ。

別に商業資本が憎いわけじゃない。かれらの商売を邪魔したいわけではない。 やりたきゃ勝手にやればいい。 廃棄が大量に出るってことにも別に私は文句を言う気にならない。 チョコレート売りたいがためにバレンタインデーをはやらせるくらいは別にどうでもよい。 それはあくまでも舶来の食べ物と文化を利用しているだけだからだ。 キリスト教徒がバレンタインデーを冒涜するなと怒るかも知れないが、私には関係ないこと。

恵方巻きが昭和頃に大阪の遊郭ではやった下品な遊びだ、それを復活させるんだというなら、やれば良い。 そのくらいなら私もしゃれでやるかもしれん。

しかしまじめくさって日本の伝統行事みたいにやられちゃ腹が立つではないか。

私は基本的に六曜とか陰陽道系の迷信が大嫌いなので、その匂いがきつい恵方巻きとかもう虫酸が走る。 せっかく明治政府が太政官令で迷信を根絶しようとしたのに。

そんなに方角が好きなら、平安時代みたいに方違えでもしろよと言いたい。バカだろ。

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12.28.2017 · Posted in kindle

アレクサンドロスがクレイトスを殺害する場面、簡単に描けるかと思っていたが、なかなか難しい。 一番の難所かもしれない。

アレクサンドロスのザグロス山脈越えは、まあわりとどうでも良い。 森谷公俊著『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』を読んだのだが、 結構高齢になってから、科研費もらってザグロス山脈の現地調査したというのはすごいが、 実際どのルートを通ったかというのは大した問題とは思えない。 別にどのルートでも結果に大差ないように思える。 アリオバルザネスというペルシャの将軍との戦い、いわゆるパールサ門の戦いだが、これも大したものだったとは思えない。

だが、アレクサンドロスがクレイトスを殺す。 簡単なようでこれがなかなか書けない。 ただ酒に酔って勢いで殺したのではない。 アレクサンドロスという人がどんな人だったのかを正確に把握してないと書きようがない。

森谷公俊氏はアレクサンドロス研究に関しては日本の第一人者と言える人だろう。 だが私は彼といくつかの点で見解が異なる。 アレクサンドロスのバビュロン入城や、パールサプラ略奪に関しては、私はギリシャ人がペルシャ人に報復したのではなく、 バビュロニア人がペルシャ人に報復したのであり、アレクサンドロスはバビュロニア人に加担、あるいは譲歩したのだ。 パールサ侵攻はバビュロン入城の交換条件のようなものであったろうと思う。 バビュロニア人だけでなく、アッシリア人も、スーサのエラム人も、ペルシャに恨みを抱いていた。 パールサプラを焼かねばならぬと考えたのはマケドニア人というよりは、それらの諸民族であったはずだ。 パールサ侵攻はそれゆえにアレクサンドロスが自ら望んで行ったものではないと思う。 パールサはアレクサンドロスにとって寄り道にすぎない。 パールサに長居したのも、ペルシャ高原を冬に移動するのは困難だったというだけのことだろう。

マケドニアやトラキアやオレスティス、エペイロスには山が多く、山羊や羊を飼う遊牧民が多く住んでいたはずだ。 ディオドロスの逸話は面白い。ザグロス山脈を越えたときに現地の羊飼いに道案内を頼んだ。 身軽な羊飼いにしか通れない山道を通ったというのは、つまり、マケドニア兵はもともとそういう山岳地帯に慣れていたということだろう。 だからイリュリアやゲタイなどトラキアの奥地に住む原住民とも互角に戦えたのだ。 アレクサンドロスにとって、ペルシャ王と戦うよりも、ザグロス山脈に住む山賊と戦うほうが面白かったかもしれない。

スーサも書こうと思ってなかなか書けない。スーサはいかなる町であったのか。 スーサについてはドイツ語のウィキペディアの記述がやや詳しい。スーサには城壁がなかった。 ダレイオス大王の王宮があり、城下町(Künstlerviertel)があっただけだ。 ペルシャに征服される前には当然スーサにも城壁はあったのだろう。

あと書かなきゃならないことは、 パールサ侵攻、ダレイオス三世の死、ベッソス捕獲、バクトリア征服。 このあたりでクレイトスは殺害される。 バクトリアでラオクスナカ、アマストリー、アパマなどのペルシャ王女らを確保する。 それから第一巻に書いたガンダーラ、インダス川、ゲドロシアへ続き、スーサに帰ってきて、ハルパロスらと一悶着あって、結婚式を挙げる。 スーサの合同結婚式より後のことを書く気は今のところない。

アレクサンドロスはなぜバビュロンを王都に定めたのだろう? 当たり前のようだが全然当たり前じゃない。 別にバビュロンにいたかったわけではあるまい。 たまたまバビュロンでアレクサンドロスが死んだので、バビュロンが王都であることになったのではないのか。

まともかく、第五巻までで書くのをやめてしまっても別に大して支障はない。 とはいえ、完結させた方が読者にとっては便利かもしれない。

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shutter island

12.23.2017 · Posted in 映画

シャッター・アイランドをみたのだが、実に後味の悪い映画だった。 ディカプリオ主演なら、レヴェナントのほうがずっと好きかな。

ミステリー、謎解き、最後のどんでん返しで、高く評価する人が多いようだが、どうなんだろうかこれは。 冒頭のシャッターアイランドの描写やダッハウ収容所のシーンなどはあまりにもどぎつく、煽りすぎているように思える。

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歌詠みの死滅

12.17.2017 · Posted in 和歌

和歌を詠み始めの頃は、やまとことばだけで、五七五七七に詠むのがとても難しいと感じる。 だけどその習慣を10年、20年と続けていくうちに、自然に歌が詠めるようになる。

今私はシラフのときにはほとんど歌を詠まないが、なぜか酒に酔って知性や理性というブレーキが利かなくなると歌を詠む人になってしまった。 そして詠んだ歌を忘れて翌朝、ツイッターか何かに書き込んだのをみて、 こんな歌自分で詠んだんだなと驚く。

私たちは考えてしゃべるのではない。 歌もそうだと思う。 自然に詠めるまで訓練することが大事なのだ。 そこまでいけば歌など勝手に詠めるのだ。 昔のうまい歌詠みたちもみんなそうだった。 うまい歌を詠もうと思って詠むのではない。 歌というものはほとんど無意識に詠まなくては良い歌にはならない。 良い歌を詠もうと巧んではならない。 そんな歌はたいてい出来損ないだ。

もちろん酔っ払って下手な歌を詠むこともある。 あとからみて陳腐だなあと思うことも多い。 しかしシラフのときには決して詠めない、詠まないような歌を詠んでいて我ながら驚くこともある。

そして、いろんな人たちのブログやSNSなど見てて、 やまとことばだけで、五七五七七に、きちんとした和歌を詠んでいる人が、 私以外にはもはや一人もいないのではないかという気がしてならない。 まだきちんと平仄あわせした七言絶句などの漢詩を作る人のほうが多いように思う。

きちんと和歌を詠む人、桂園派の生き残りは柳田国男くらいまでだった。 今の人たちは昔の人たちのように和歌を詠むことなんてできないとはなから諦めている。 佐佐木信綱あたりがそう決めてしまった。 佐佐木信綱ですら詠めないのだから私たちも詠めるはずがないと思い込んでしまった。 諦めるから詠めないのだ。 一つの伝統が尽きようとしている。死に絶えようしている。 このままではほんとうに日本人は和歌を詠めなくなってしまう。 実に恐ろしい。

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